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飯島利一

Author:飯島利一
授業づくりJAPAN(日本の誇りと歴史を伝える授業づくりの会)は独立国日本の再建を志す教師の会です。誇りある日本人を育てる授業を実践し、全国の同志と支え合います。国を思い先人に感謝し卑怯をにくむ日本人、日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人を育てます。

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◎事故の報道と反響
この事件の報道について、多くの新聞や雑誌が国内のみならず、欧米各国でも大きく取り上げました。イギリスの新聞『グローブ』紙は、《この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか道徳上、精神上にもまた勇敢であることを証明している。今にも昔にもこのようなことは世界に例がない》と驚嘆しました。



また、各国の駐在武官は、詳細な報告を本国に伝えるとともに、海軍省を訪れて弔意を表明しました。これらは通常の外交儀礼をはるかに超えたものと言われます。驚くことに、イギリス海軍は、今でも毎年小浜市で行われる佐久間勉威徳顕彰祭に、英大使館付武官を派遣しスピーチをしています。



明治時代当時の文壇にも、大きく影響を与えました。女流歌人として知られる与謝野晶子は、佐久間を悼んだ短歌十二首を歌いました。「海に入り 帰りこぬ人十四人
今も悲しき もののふの道」。さらに夏目漱石は「文芸とヒロイック」という小文の中で次のように書いています。

以前にイギリスの潜水艇に同様の不幸があった時、艇員は争いあって、死を免れようとする一念から、一カ所にかたまって水明かりの洩れる窓の下に折り重なったまま死んでいたという。本能がいかに義務心より強いかを証明するに足るべき有力な出来事である。本能の権威のみを説こうとする自然派の小説家は、ここに格好の材料を見いだすことであろう。そして手腕ある作家によって、この一つの出来事から傑出した文学を作り上げることができるだろう。けれども、現実はこれだけで、その他は嘘であると主張する自然派の作家は、一方において佐久間艇長とその部下の死と、艇長の遺書を見る必要がある

夏目漱石がふれているイギリスの事故では、いずれも呼吸が苦しくなった乗員たちが争ったまま発見されたと言います。酸素を求めてハッチの下に折り重なって死んでいたのは、当然、人間の「本能」です。漱石は、そうした生物的な本能を否定しているのではありません。

問題は、本能がむき出しなるような痛ましい事故が起こるたびに、「それみたことか、これが人間なのだ」「人間というのは所詮こういうものなのだ」と主張する、自然派作家の風潮に異を唱えているのです。

死に直面すれば、どんな人間だって本能で行動する。この真実を覆い隠して、偽りの美談を仕立てるのは間違っている、英雄的な行動や崇高な行為などは、一皮むけば嘘で固めたでっち上げである、という考え方が、当時流行していた自然派作家の主張といえるでしょう。


 しかし、人間は本能のままの動物ではなく、心をもった人間としての行動がとれるのではないか。佐久間の行動を知り、触発された夏目漱石は、すべて人間の世界は「本能」が「義務心」よりも勝るのか、佐久間の様に絶望状態にあっても「義務心」が「本能」に打ち克つことがあるではないか。人間はそんなに醜い者ばかりではない、崇高な人間の美しさを否定するのは間違っている、と主張しているのです。




〈問題3〉


夏目漱石の言う「本能」と「義務心」について、あなたの考え・思ったことを書いて下さい。


(以下、○印は生徒の主な回答)

○本能は誰でも持っているものだし、こういう場合になったら、私も本能のまま動いてしまうかもしれないけれど、本能を抑え義務心で行動した佐久間さんはすごいなと思いました。義務心をしっかりもっている上司だと部下もみな義務心をもつことができ、最期まで自分の職をまっとうできたと思う。


○私は、本能は義務心に勝てないと思っていたけれど、本当にこんな人がいたことを誇りに思います。所詮人間は・・・という決めつけが、そういう考えを増大させているのかもしれないと思いました。


○日本人独特のものだと思う。太平洋戦争の特攻隊も、生きたいという本能を押し殺して一種の義務心によって行動している。つまり社会状況や教育によってどんなような人間も育てられるということかもしれない。


○佐久間のような「義務心」が、普通の人(自分を含めて)にも備わっているか、不安に思う。漱石が書いているようにどんな人間でも程度の差はあれ、人間すべてに備わっていると信じてもっと自分を高めて生きたいと思う 。


◆生徒の主な感想
○佐久間艇長のあり方に、胸が震えるほど感動しながらも、自分とはあまりにかけ離れた佐久間艇長に言葉を失いました。英雄たりえる人とは、自分の身を賭して誰かを守れる人なのだな、と思いましたが、自分には絶対できないことだと思いました。

○こんな立派な人なのに、何故日本で全然有名じゃないのかが不思議に思った。同じ日本人として誇りに思うし、それが外国の教科書に載っていてうれしいことだと思った。


○佐久間という偉大な人を知ることができて良かったです。同じ日本人が知らないのに、外国で「道徳上・精神上でも勇敢な日本人」として広く知られていることはとても嬉しいです。ドラマや映画で自分の命を犠牲にしても助けるというレスキュー隊の物語があって感動しています。


○すごく考えさせられたし、ずしりと重い授業だった。「本能」に打ち克つことはたやすいことではないが「義務心」で動かなければならないことがあることを、佐久間勉と同じ日本人として深く胸に刻んでおきたい。


○人の上に立つことのすばらしさを知った。これからの人間もそういう立場に立つ人は常に冷静で仲間を思いやる心がなくてはいけないのだなと思った。真のリーダーシップとは何か、姿勢を学んだ。


○とても興味深い話で面白かったです。この先の将来、社会にでて自分がどんな風に行動できるのかを考えさせられました。もっとこのような人たちを知りたい。


○おそらく戦後の日本では、軍人の美談を教えることがタブーとなってしまったのだと思うが、私は学校でしっかりと教えてもいいと思う。だから今日の授業は、「自分は日本人である」という自覚をもたせる良い授業だった。



◆おもな参考文献

・『佐久間艇長の遺書』TBSブリタニカ

・占部賢志『歴史の「いのち」』 モラロジー研究所
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◎乗組員たちの最期
(生徒の発言を内容別にいくつか板書し、次の資料を読む。問題1の答えとなる所に線を引くように指示する)

六号艇の近くにいて、訓練を監督していた歴山丸の担当者が、不安に駆られて事態を通報したのは、夕方になってからでした。この時点から大がかりな捜索、救援活動が始まりましたが、沈んだ場所を特定できず発見が遅れました。見つかったのは、翌日の十五時半頃でした。さらに、潜水艇の回収作業が困難をきわめ、ようやく引きあげに成功したのは、事故発生の二日後、十七日の午前十時四五分のことでした。



引き上げられた潜水艇の中へ、捜索を担当した吉川中佐らが、検分のために入りました。駆けつけてきた家族には、陸にあがった潜水艇に近づくことは許されず、ごく一部の関係者以外は立ち入り禁止となりました。潜水艇の事故は、これまで諸外国でも事例があり、いずれも内部は悲惨なありさまだったのです。アメリカとイギリスの事故の場合では、ハッチが開かれると、そこに脱出しようと乗組員が、出口に殺到して争った形跡がみられたそうです。乗組員は皆、空気を求め苦しみもがき、のどをかきむしった跡を残して、恐ろしい形相で息絶えていたということです。そのような姿を遺族に見せることはできないと、吉川中佐らは考えたのです。



意を決して吉川中佐はハッチを開けました。しかし、ハッチ周辺には誰の姿もありません。さらに艇内に足を踏み入れ、奥に入ったところ、吉川中佐ら関係者たちは思わず息をのみました。佐久間艇長は司令塔にいて厳然と指揮するまま、生きているような表情で息絶えていました。機関中尉は電動機の前に、舵手はハンドルを握ったまま目をつむり、その他の乗組員もそれぞれの持ち場を離れることなく死んでいたのです。最期に至るまで潜水艇の修復に全力を尽くしたまま死んでいった仲間の姿を見て、吉川中佐は胸に迫る想いをおさえることができず、泣き崩れてしまったといいます。



その夜、遺留品の整理に、佐久間の小浜中学の後輩、倉賀野明が手助けに現場にやってきました。倉賀野が遺留品係を補助しているときに、佐久間の手帖を見つけました。もしかしたら、最期の決心を書き残しているのではないかと思って、手帖を開きます。最初の方のページはみな白紙でした。無念に思って手当たり次第中間のページを開くと、そこに乱れた筆の遺書があらわれたのです。

(生徒に線を引いた所を発声させ、乗組員が最期に至るまで潜水艇の修復に全力を尽くしたこと、佐久間が「遺書」をのこしていたことを確認する)。 




〈問題2〉


遺書にはどんなことが書かれていたのでしょうか。




(以下、○印は生徒の主な回答)
○家族や仲間、今までお世話になった人への感謝の気持ち、別れの言葉や、家族へのメッセージ


○死なねばならないことを無念に思う


○事故の記録。事故の起こった経緯などを書いて、二度とこんなことが起こらないように残した。


○最期まで潜水艇の修復に尽力した乗組員を讃えてほしい。部下たちの努力した功績。


○ずっと憧れていた海軍になれて幸せだった。未練はない本望だ。誇りに思う。最期の決意。


○国がつくった潜水艇を自分たちが沈没させて申し訳ない。部下に申し訳ない。死んでいく部下の遺族への謝罪。


○海軍の未来を託す。自分は死んでしまうが、後のことを任す。自分たちの死を無駄にするな。



◎遺書を読む
それでは、佐久間大尉の遺書にどのようなことが書かれていたのか、確認してみましょう。次の写真は、その遺書の書き出し部分にあたります。

67d.png

 ① 佐久間艇長遺言 小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申シ訳無シ。サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニコトヲ処セリ。我等ハ国家ノタメ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハコレヲ誤リ以テ将来潜水艇ノ発展に打撃を与フルニ至ラザルヤヲ憂フルニアリ。希クバ諸君マスマス勉励以テコノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレンコトヲ。サスレバ我レ等一モ遺憾トスルトコロナシ。

② 沈没ノ原因 瓦素林潜航ノ際過度深入セシタメ「スルイスバルブ」ヲシメントセシモ途中「チェン」キレ依テ手ニテ之レヲシメタルモ後レ後部ニ満水セリ。約二十五度ノ傾斜ニテ沈降セリ。
沈据後ノ状況
一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤ツカリタルタメ電灯消エ、電纜燃エ悪瓦斯ヲ発生呼吸ニ困難ヲ感ゼリ。十五日午前十時沈没ス。コノ悪瓦斯ノ下ニ手動ポンプニテ排水ニ力ム。
一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ、灯消エゲージ見エザレドモ「メンタンク」ハ排水シ終ワレルモノト認ム。電流ハ全ク使用スル能ワズ、電液ハ溢ルモ少々、海水ハ入ラズ「クロリン」ガス発生セズ唯々頼ム所ハ手動ポンプアルノミ。(后十一時四十五分司令塔ノ明リニテ記ス) 溢入ノ水ニ浸サレ乗員大部謂フ。寒冷ヲ感ズ。余ハ常ニ潜水艇員ハ沈置細心ノ注意ヲ要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ム可カラズ、細心ノ余リ萎縮セザランコトヲ戒メタリ。世ノ人ハコノ失敗ヲ以テ或イハ嘲笑スルモノアラン。サレド我レハ前言ノ誤リナキヲ確信ス。
一、司令塔ノ深度計ハ五十二ヲ示シ排水ニ勉メドモ十二時迄ハ底止シテ動カズ、コノ辺深度ハ十尋位ナレバ正シキモノナラン。
一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス、カカルトキニ困ル故。幸ヒに本艇員ハ皆ヨク其職ヲ尽セリ、満足ニ思フ。

③ 我レハ常ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス。サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出ノ中ニアリ(之レ但私事ニ関スルコト、イフ必要ナシ、田口、浅見兄ヨ之レヲ愚父ニ致サレヨ)

④ 公遺言 謹ンデ
陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノナカラシメ給ハラワンコトヲ、我ガ念頭ニ懸ルモノ之アルノ。左ノ諸君ニ宜敷(順序不順) 斉藤大臣 島村中将 藤井中将 名和少将 山下少将 成田少将 (気圧高マリ鼓膜ヲ破ラルル如キ感アリ) 小栗大佐 井出大佐 松村中佐(純一) 松村大佐(竜)(小生ノ兄ナリ) 松村少佐(菊) 船越大佐 成田鋼太郎先生 生田小金次先生 十二時三十分呼吸非常ニクルシイ  瓦素林ヲブローアウトセシシ積モリナレドモ、ガソリンニヨウタ 中野大佐  十二時四十分ナリ、



 以上が遺書の全文です。内容は、①部下を死なせてしまった責任を自ら負い、部下が最後まで沈着に任務を尽くしたことに感謝している。さらに、この事故が将来、潜水艇の研究発展の妨げにならないことを願っている。②沈没の原因とその後の処置について。③私事に関する遺言状について。④最後に、明治天皇に対し部下の遺族の生活が困窮しないように懇願している、というものでした。

佐久間は死の直前に取り乱さないばかりか、この事故によって研究開発が遅れることすら心配して、後世のために遺書を記していたのです。

◎どんな人物でしょうか
次の写真の人物を、誰だか知っていますか。日本ではほとんど知れていないのに、欧米をはじめ海外の教科書にでてくるような著名な日本人は結構多いのです。歴史上のどんなことをした人物でしょう。写真からうけた印象を述べて下さい。
(「佐久間勉」と板書、生徒に写真の印象を聞いたあと、次の資料を読む)

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◎アメリカの教科書に登場した佐久間勉
「ニューヨークタイムズ」の記者で、ピュリッツアー賞を受賞したハンセン・ボールドウィン(Hanson Baldwin)という作家がいます。

氏は、軍事評論家でもあり、一九五六年に『海戦と海難―七つの海の真実の物語』(SEA FIGHTS AND SHIPWRECKS)を著しました。その本のなかで、佐久間勉という日本人を紹介し、全米で話題となりました。これがきっかけとなり、佐久間勉のエピソードが、カリフォルニア州の高校教科書「リーダーシップ」で取り上げられたのです。

佐久間勉は、明治十二(一八七九)年九月十三日、福井県若狭町に生まれました。明治二七(一八九四)年に日清戦争が起こり、中学三年だった佐久間は海軍に憧れ、海軍兵学校への志望をかためます。その後、中くらいだった成績を向上させ、懸命に勉強して、難関の海軍兵学校に入りました。

海軍の将校となった佐久間は、戦艦「吾妻」などに乗艦して、日露戦争に従軍しました。その後、佐久間は当時最新の兵器として開発に期待がかかっていた潜水艇を研究することになりました。大尉に昇進すると、国産初の第六号潜水艇の艇長に任命され、潜航実験・訓練に取りくむ毎日を送ります。

そして、明治四十三年四月十五日、佐久間は運命の日を迎えるのです。


◎第六号潜水艇の事故
佐久間勉はじめ十四名の乗組員は、この日もいつものように、第六号潜水艇に乗り込み、潜航実験のため、瀬戸内海の新湊沖へ出ました。

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第六号艇は、米英製にくらべて形も小さく、性能も貧弱で、波に耐える力が弱く、「ドン亀」と呼ばれていました。そのため操作が難しく、乗組員はみなベテランばかりでした。

午前十時頃から、現場では半潜航という訓練に入りました。半潜航というのは、潜水艇を水中に入れ、通風筒の先だけを海面上に出して、海上航走します。ところが、その時どうしたことか、突然通風筒から、どっと海水が入ってきたのです。佐久間は、ただちに通風筒のバルブを閉じるように命じましたが、悪いことが重なります。開閉バルブのチェーンがはずれてしまったのです。佐久間はすぐに手動で閉めるように言いましたが、チェーンほど速くはいかず、海水が容赦なく艇内に入ってきました。

必死で閉め終わったときには、すでにかなりの海水が艇の後部に入りこみ、配電盤もショートして、艇内は真っ暗になってしまいました。その上、ショートによって絶縁体のゴムが焼け、悪臭のガスが発生して、乗組員の呼吸を困難にしていきました。

その間、第六号艇はどんどん海の中へ沈んでいきました。艇内に侵入した海水が予想以上に多かったのです。佐久間以下乗組員は、手動ポンプによる排水を代わる代わる懸命に試みました。しかし、一向に艇は浮上する気配を見せません。焦る乗組員を、佐久間は大声で励ましながら、少しでも潜水艇を軽くしようとガソリンの輩出にあたります。が、そのパイプは無惨にも破れ、裂け目からガソリンが床に広がり、鼻を突く臭気が息苦しい機関室に立ちこめました。

苦しい呼吸の中で乗組員は、パイプに布をあてガソリンの流入を止めようし、別の者は手動ポンプで排水作業を続け、みな懸命に力をふりしぼりました。しかし無念にも、潜水艇は海底に沈んで止まってしまいました。深水計は五十二フィート(約十六メートル)を示し、全く動きません。空気はしだいに薄くなってきます。乗組員十四名は全員、死を覚悟しなければなりませんでした。

〈問題1〉
「このとき、乗組員たちは、どのような行動をとったでしょうか、考えたことを書いてください。もしあなたが彼の立場だったら、どうするかということでもかまいません。


(以下、○印は生徒のおもな回答)
○冷静ではいられず取り乱してしまう。乗組員たちを励ますが、だんだん絶望してパニックになっていく。平常心は保っていられない。焦って何もできない。

○最期まで排水したりしてあきらめない。艇長としてみんなを励まし続けると思う。何か起こることを期待して最期まで頑張る。無理とわかっていても死ぬまで懸命に排水作業を続ける。乗組員を励まして最期まであきらめないように言い聞かす。

○自分だったら海底に沈む前に潜水艇から脱出する。どうにか外にでられるようにもがく。死を覚悟して外に出て助けを求める。助かる方法を考え試してみる。十六メートルなら脱出しても助かるかも。

○無用に死ぬくらいならせめて最期までかっこよく死にたいと自殺した。酸欠は苦しいので自ら死ぬ。苦しんで死ぬより自分で命を絶とうとする。楽に死ねる方法を探す。

○死を覚悟して大切な人に手紙を書いた。家族や世話になった人に、いつか発見されることを考えて何かにメッセージを残す。遺書を書く。潜水艇の事故の様子をメモに遺す。

○なるべく長く生きられるように静かにする。寝る。海軍にいるのは本望だからそのまま死を覚悟して待つ。落ちついて今までの人生をふり返る。

○最後に奇跡がおこらないか祈る。極力動かないようにして救援を待つ

○不安を紛らわすためにおしゃべりする。のこり時間を好きなように使う。


〈授業展開3〉「建国記念の日」を忘れた日本人?

◎戦後の法改正 建国記念の日
その2では、GHQの占領下における祝日法の制定について学びました。とりわけ、国民の熱望した建国記念の日をGHQが認めなかったのは、占領方針が「民主化」といいながら日本の伝統・文化を断絶し、アメリカの脅威にならない日本人に改造するねらいがあったためだと、理解できました。

日本は、昭和27年4月28日に主権を回復し、6年8ヶ月に及ぶ占領から独立しました。これをうけて、建国記念日を設けようという紀元節復興運動が湧きおこります。

〈問題5〉建国記念日設置の法案は、日本が講和条約を結んでから、何年たってから成立したでしょうか。
(イ)3年後 
(ロ)5年後
(ハ)10年後 
(ニ)15年後


国民がずっとのぞんでいたのだから、すぐにでも成立したのではないかと思いますが、じつは正解は(ニ)、15年後です。昭和41年のことでした。この年の第51回通常国会で、体育の日と敬老の日といっしょに法案が通過し、ようやく成立したのです。

ここまで年月を必要としたのは、米ソ冷戦構造のなか、法案成立をめざす保守勢力と革新勢力が対立し、国会が混乱状態にあったからです。各政党の建国記念日の日取り案を見ると、法案は成立したものの、建国記念の日をいつにするかをめぐって、いろんな議論があったことがわかります。

 《資料》各政党の建国記念の日 日取り案
 ①自民党 2月11日説 神武天皇の即位伝承にちなむ
 ②民社党 4月 3日説 聖徳太子の十七条憲法の制定にちなむ
 ③社会党 5月 3日説 現行憲法の施行にちなむ
 ④公明党 4月28日説 講和条約発効にちなむ
 ⑤共産党 真の建国は人民が将来に闘いとるべきもの
                              (所功氏による区分)

①②が先祖伝来の歴史と伝統を尊重する立場、③④が戦後に新しい国家が誕生したと見る立場です。⑤はいまだ建国に至っていないと理解するのでしょうか。紀元節にあたる①の2月11日以外は、すべて新しい考え方を根拠にするものです。

最初に確認したように、祝祭日とは、その国らしさ(国柄)、歴史や文化を表すものであり、自分たちの国の来歴、公的な記憶(パブリックメモリー)を再確認する意味があります。①以外の案ではいずれも戦前の公的記憶は受け継がれなくなってしまいます。そして今、我われ日本人は国民の祝日をみんなで祝い、喜びを分かち合うことをしなくなってしまいました。

◎祝祭日を忘れた日本人 まとめ
最後に、今日学んだことをまとめしましょう。GHQの占領をきっかけに、私たちは祝祭日を大切に過ごすことの意味を忘れてしまった。それはつまり、先人が育んできた歴史・文化などの公的な記憶を、さらに言えば国民として心のよりどころとなる精神を失ってしまったことを意味します。

GHQの占領によって日本人は解放・自由を獲得した、というイメージが根強くあります。しかし実態としては、占領によって日本の歴史・文化・伝統が歪められたという視点でとらえることが大切です。次の《資料》ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』を読めば、説得力をもってGHQのねらいが理解できます。

《資料》ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』
一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。
その国民の図書、その文化、その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化をつくらせて新しい歴史を発明させることだ。
そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についてもその過去についても忘れはじめることになるであろう。 


われわれ日本人は、このままでよいのでしょうか。
皆さんは今日の授業で学んだことをふまえて、次の問題に答えて下さい。

〈問題6〉平成19年に新たな祝日が制定されましたが、何の日か、知っていますか。4月29日の祝日です。
(イ)みどりの日 
(ロ)平和の日
(ハ)昭和の日 


正解は(ハ)昭和の日ですね。祝祭日の意味を忘れたわれわれ現代人にとって、いわゆるゴールデンウィークの1日にすぎないこの日を、何の祝日か知らなかった人も多いのではないしょうか。昭和天皇の誕生日だった4月29日が、みどりの日から昭和の日に変わったのです。昭和の日には次のような思いが込められています。

【ポイント6】 
昭和の日=激動の日々を経て復興を遂げた昭和の日々を顧み、国の将来に思いをいたす日


せめてこの日は、例えば今日の授業で学んだように、何かテーマを見つけて激動の昭和という時代をじっくりと振り返ってはどうでしょうか。


☆おもな参考文献
①薗田稔・所功・加瀬英明ほか『日本の祝祭日を考える』てんでんブックレット3展転社(H6)②高橋史朗『検証戦後教育』広池出版(H7)
③高橋史朗『歴史の喪失』総合法令(H8)
④『近現代史の授業改革5「日本の占領」これだけは教えよう』明治図書 (H8)
⑤井尻千男「主権回復を創設する秋」『発言者37』(H9)
⑥坂本多加雄『歴史教育を考える』PHP新書(H10)
⑦産経新聞取材班『祝祭日の研究「祝い」を忘れた日本人へ』角川one テーマ21(H13)
⑧所功『「国民の祝日」の由来がわかる小事典』PHP新書(H15)

高等学校 歴史と文化の授業

〈授業展開2〉祝日法の制定とGHQの占領政策

◎祝日が定められたのはいつ?
 その1では、祝祭日が、文化的かつ歴史的な意味をもち、世界中の国でとても大切にされていることを確認しました。
 それでは、日本の場合はどうでしょうか。例えば建国記念日を、国民全体でお祝いするという雰囲気はありません。また、日本の祝日は日本らしさに乏しく、無国籍的だとも言われます(せいぜい天皇誕生日くらい)。さらに、日本では制度上、祝日のみで、伝統的な信仰に基づく祭日がないのです。どうしてこのような状態に陥ったのでしょうか。我が国の祝日の成立について考えていきましょう。まず、次の問題に挑戦してください。

〈問題2〉現在の祝日は、これまでに何度か変更してきましたが、基本的な制度は、いつできたのでしょうか。次の中からイメージでこれと思うものを答えてください。
(イ)平安時代 
(ロ)江戸時代
(ハ)明治時代 
(ニ)昭和時代


 正解は(ニ)です。我が国の祝日は、長い歴史とともに時間をかけて、制度化されてきたとイメージする人もいるかもしれません。たしかに祝日の起源をたどれば、その出発点は見方によって弥生時代ころにまで遡ることができるでしょう。
 しかし、現代における祝日の枠組みは、昭和の時代に入ってから。とくに重要なことは、日本が戦争に敗れ、GHQ(連合国軍総司令部)によって占領されたときに定められたことです。

【ポイント2】
昭和23年 祝日法の制定
GHQの占領期→「民主化・非軍事化」による日本社会の改造…神道指令


 現在の祝日は、祝日法という法律によって制定されました。いまだGHQの占領期である昭和23年ことです。

占領期にGHQは、「民主化と非軍事化」を実現しようと、さまざまな政策を実施しましたが、それらは、日本がアメリカにとって二度と脅威にならないように、日本の社会を改造し、日本独自の文化的・社会的な価値観・思想など、日本人そのものをつくりえてしまおうというものでした。

 その諸政策の一つに神道指令があります。この指令は、日本の伝統的な神道や皇室に関わるものを国家から排除しようとするものでした。祝日法の制定は、この神道指令に基づいて定められたのです。

◎祝日法の成立事情
それでは、GHQの占領下で、具体的に祝日がどのように定められたのかを考えてみましょう。

まずは、昭和22年12月のことです。GHQ民政局の宗教課長バンスが、従来の祝祭日を全面的に見直しさせ、とくに神道・皇室祭祀に関する祭日は廃止させ、祝日のみに一本化するよう日本政府(片山内閣)に指示しました。

これを受けて、政府が、政令によってあらたな祝日を制定しようと検討をはじめました。しかし、国会で一部の識者が、政府の政令によって決めることに反発しました。国民を尊重する意味で、国会が決めるべきだと主張したのです。

国会はGHQの了承をえて、まず、祝日に関する世論調査を実施しました。国民がどのような祝日を望んでいるか、世論調査によって明らかにしようとしました。世論調査の実施の結果、国民が選んだ祝日は、どのようなものだったのでしょうか。

〈問題3〉世論調査の結果、次の中で国民が最ものぞんだ祝日はどれだったでしょう。
 (イ)終戦記念日
 (ロ)平和の日
 (ハ)こどもの日  
 (ニ)建国記念の日


意外に思う人も多いと思いますが、じつは建国記念の日。世論調査で81.3%の国民がこの日を選んだのです。したがって(ニ)が正解です。

建国記念の日は、戦前には紀元節といわれ、『日本書紀』によれば初代の神武天皇が即位した日で、日本が建国された日にあたるのです。紀元節には、多くの国民が建国を祝って過ごしたと言われています。

【ポイント3】
 建国記念日 世論調査81.3%
 紀元節=『日本書紀』神武天皇の即位の日 …国民に親しまれていた記念日


世論調査を受けて、国会では国民のが慣れ親しんだ、戦前からの祝祭日をなるべく多く残そうと努力がはらわれました。たとえば、明治節(11月3日・明治天皇の誕生日)が文化祭(衆議院)・憲法記念日(参議院)。新嘗祭(11月23日)が新穀祭(衆議院)・成人若人の日(参議院)などです。

本来なら国権の最高機関である国会で決まれば制定されるはずです。しかし当時はGHQの占領下なのです。国会で定めても、GHQがどのように判断するかが問題です。

〈問題4〉国会の案に対して、GHQはどのような反応をしたのでしょうか。
 (イ)祝日の制定は日本の国内問題であり、GHQとしては関知しない。
 (ロ)GHQの方針は民主化にあるので、国民がのぞむ記念日であれば承認する。
 (ハ)GHQの占領方針と合わない記念日があるから、了承できない。


 正解は(ハ)です。しかも占領方針と合わないとされたのは、国民が最も望んだ建国記念日でした。GHQの占領の目的が、本当に日本の民主化であれば、(イ)(ロ)のような判断が妥当です。当時の戦時国際法(ハーグ陸戦法規第四三条)でも、占領下の国のあり方を変えることは禁じられていました。しかし、GHQは、国民がもっとも熱望した建国記念日を認めませんでした。さらに、この法案文の一部「正しい伝統を守りつつ」という表現を削除するように要求。結局「美しい風習を育てつつ」と改めました。まさに日本の伝統が否定されたのです。

【ポイント4】GHQの対応
①建国記念の日を認めず
②法案文一部削除を要求 「正しい伝統を守り」→「美しい風習を育て」


この事例を考えれば、GHQ占領の本当のねらいは明らかです。表向きには、日本の民主化といいながら、日本国民の意志よりも自分たちの思惑を優先させていたのです。彼らは、日本が二度と脅威にならないために、我々日本人を精神面から作りかえようと考えていました。これを精神的武装解除工作と言います。占領の真のねらいは、日本人がこれまで大切にしてきた歴史や文化、伝統を断ち切らせることだった。結局、占領とは形を変えた戦争の継続なのです。

【ポイント5】GHQ占領の真のねらい
精神的武装解除…日本の文化・伝統を断絶


結局、占領下の特殊事情でやむなしと、国会は法案を成立させ、国民の祝日が制定されました。GHQの占領のもと定められた9つの祝日を確認しましょう。
 1月1日   元日
 1月15日  成人の日
 3月春分日  春分の日
 4月29日  天皇誕生日
 5月3日   憲法記念日
 5月5日  こどもの日
 9月秋分日  秋分の日
 11月3日  文化の日
 11月23日 勤労感謝の日

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