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飯島利一

Author:飯島利一
授業づくりJAPAN(日本の誇りと歴史を伝える授業づくりの会)は独立国日本の再建を志す教師の会です。誇りある日本人を育てる授業を実践し、全国の同志と支え合います。国を思い先人に感謝し卑怯をにくむ日本人、日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人を育てます。

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キャロライン・ケネディ新駐日大使については、父のケネディ大統領の絶大な人気から、期待が過熱していたきらいがある。就任後、日本特有の文化・慣習を軽視した発言や、立て直しをはかるNHKへの対応等々、首を傾げる報道に懸念している日本国民は少なくないだろう。
 だが、そのキャロライン氏の発言におおいに沸いた町があった。それは山形県の米沢である。米沢では、上杉鷹山を地域の偉人として、市内の小学校のほとんどにその肖像画を掲げ、彼を知らぬ者はいない。
 そして、ケネディ元大統領が、最も尊敬する人物として上杉鷹山を挙げたということが広く語られ、そのことは米沢市に立てられた鷹山像の説明看板にも書いてあった。しかしながら、このケネディ発言は、裏付けるような文書・記録がなく、信憑性が疑われ、もはや「都市伝説」として葬り去られていた。
 ところが、キャロライン氏が昨年十一月に行った講演で、「父は上杉鷹山の善政と公益への献身を称賛していた。鷹山は民主的な改革を導入した。社会階層の異なる人々に対し、協力して社会に尽くすよう促した。父が残した公務に関する言葉とも響き合う」と述べたというのである。
 この発言は米沢の人々を感激させたが、彼女自身もこのエピソードを直接大統領から聞いたのかどうかはっきりとせず、単なる日本人へのリップサービスにすぎないのでは、という冷静な見方もある。
 「都市伝説」で終わるのか、その真偽は今後の検証を待つほかないが、米沢ではキャロライン氏を当地に招聘しようとする動きが活発化している。
 最近でこそ、上杉鷹山は、「首相になって欲しい歴史上の人物」(二〇一一年日刊スポーツ)として、織田信長、坂本龍馬に次ぐ堂々の三位に挙がるほどの知名度を誇るが、歴史の授業ではいかに習ったのだろうか。江戸時代の、それも山形県の一地方藩主の動向など、触れていたとしても、まず記憶に残りそうにない。ゆえに、ケネディ元大統領が「上杉鷹山」の名を挙げたときに、日本人記者の方が知らなかったというエピソードにも頷けるのだが、今ではビジネスマンを中心に人気が出ているらしい。
 武士が国を治めた江戸時代といえば、主命に絶対服従、滅私奉公といった強権的なイメージや、士農工商の身分制から、抑圧的な社会が想起されてしまいがちだが、現代人が鷹山の生涯を知ったことで、それが変化したのなら幸いだ。
鷹山は、一七五一年に九州の小藩の次男として誕生したが、十歳のときに母方の血筋によって、中世からの名門、上杉家の養子に迎えられた。
 名門とはいえ、当時の上杉家は謙信公の時代とは違い、関ヶ原の敗戦などで、領国は、最盛期の一二〇万石から十五万石に減らされたにもかかわらず、家臣は解雇せぬまま五千人を養っていた。
 この逸話は、現代のリストラ批判の中では美談で語られるが、当然ながら、経営側にとっては借財が増える一方である。米沢藩内では、「もはや領国を幕府に返上すべきではないか」という議論まで出るほどの惨状で、当時十七歳でお国入りした少年藩主は、破産寸前の会社を任されたようなものだった。まったく気の毒な話である。
 米沢に残る史料には、若き新藩主を迎えるにあたって風呂桶などを新調したが、それらを購入するにも分割払いにするしかなかったと書かれている。
 鷹山は雪深い領地に入って、その窮乏に驚愕し、早速、食事から服装に至るまであらゆる質素倹約を実践した。食事は一汁一菜、また、みずから田を耕して(儀礼的なものであるが)農業を重視する姿勢を示した。
 くわえて、藩内すべての家臣に、荒地の開墾や治水工事に参加することを命じ、武士も刀を農具に持ち替え、生産力の増大に取り組ませている。
 しかし、名門上杉家のプライドをもち、贅沢にも慣れた古参の重臣らは、新藩主のやり方に反感を抱いた。かれらは倹約令を無視し、従来の華美な服装を続けたばかりか、「小藩からの養子では、名家上杉家の格式はご理解できますまい」と皮肉まじりに言い、「藩内には誰一人として殿の改革を支持する者はいない」と批判したのである。
 鷹山は、すぐにこの訴えの真偽を確かめるべく動きだした。現場の実情を知る他の家臣、実際に農民と接している下級武士たちの声を調査したのである。
 すると、ほどなく重臣グループの訴えはまったくの虚偽であり、藩内の家臣、農民に至るまで、鷹山の改革を歓迎しているという事実が明らかになった。
主君の方針に真っ向から意見する重臣グループがいる一方、それに対して広く藩内の声、特に現場の実情を汲み上げようとする主君がいる。
このように、いずれに是非があろうとも、藩主が恣意的に意思決定するのではなく、家臣、領民ら、すなわち民意を聞いたうえで判断するという考え方があったことが、このエピソードから明らかになる。日本型「デモクラシー」ともいわれる所以である。
 鷹山は、藩主の座を次代に譲るにあたって、国を治める心構えを、有名な三ヶ条の「伝国の辞」にまとめた。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我れ私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして、我れ私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立てたる君にて、君の為に立てたる国家人民にはこれ無く候
 これは、主君は国家や人民のために存在するのであり、その逆ではない。決して藩の財産や人民を私物化してはならないという意味である。
 では、米沢藩のみが特別、英邁な主君に恵まれたのだろうか。実は、「伝国の辞」は、江戸時代初期の軍学者、山鹿素行(一六二二年生)の
「人君というのは、天下万民のために立てたものであり、人君は、その地位を己自身のものだと考えてはならない。民が集まって君主が立てられ、国が成立する。それゆえ、民は国の本と考えよ」
という言葉に原型があった。
 戦国時代が終焉すると、戦闘を職業とする武士たちは、その存在意義を問われることになった。太平の世にあって武士は如何に生きるべきか、山鹿素行はかれらに道を示した。
「世の中に不可欠な生産に従事する農民、職人、商人と異なり、武士はその身分ゆえに働かずとも衣食住に不便がない。戦乱なき世の武士は、文武両道、人の道を究め、農工商民の模範となり、かつ彼らの平安と生命を守るべきである」。
 このような素行の言は江戸時代を通じて受けつがれ、大きな影響を与え続けた。武士は民の上に立ちながら、民に思いを寄せ、社会の安定をはかる政治を目指したのである。
鷹山も当初は厳しい倹約を強いたが、敬老表彰や育児支援など、いわゆる福祉対策への出費を惜しまず、働き手の意欲を高めることも忘れなかった。
だが、その一方で、
 〈米ができぬ土地ならば、桑を植えよ〉
 〈他藩に負けない特産物を開発せよ〉
 〈商品には付加価値をつけよ〉
と、民の側にも創意工夫による自助努力を求め、国家(藩)に尽くすように働きかけた。

なせば成る なさねば成らぬ 何事も
 成らぬは人のなさぬなりけり

鷹山の有名すぎるこの言葉も、武田信玄の「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人の儚き」からとっていた。武田信玄も戦国武将として戦上手というばかりではなく、民政に尽くし、領国経営を安定させたことで知られる。
 鷹山は、先人の善政に学び、ときには痛みを伴う改革を、強靭な意志をもって遂行することにより、現代でも〈理想のリーダー〉と言われるようになった。
 しかし、今の日本にこのような人物を首相にしたいと求める声が、本当にそんなに多いのだろうか。国の庇護ばかりを要求し、権利ばかり求めながら、義務は軽視し、努力を惜しむ。もし「上杉政権」が出来たら、すぐさま、民衆に潰されそうだが。
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 交差点の向側から眺めてみる。周囲を近代的な高層ビルに囲まれた小さな一角は、兵庫県神戸市三宮神社。慶応四年(一八六八)一月、戊辰戦争が始まった一週間後、ここで、日本を揺るがす大事件が起きた。
 大政奉還からわずか二ヶ月余り、ようやく発足した新政府は、旧幕府軍の攻撃にそなえて、備前岡山藩にこの地の警護を任せた。その備前藩の隊列が三宮神社付近を通ったところ、二人のフランス水兵が前を横切ろうとしたのだ。
 六年前の「生麦事件」の再現。
 本来なら手討ちにされても仕方がないところだが、藩士の大砲隊長、瀧善三郎は覆いがついたままの槍でフランス兵の腰を小突いて、制止しようとした。するとフランス兵はピストルを構えて、銃口を向けてくる。
 瀧善三郎は驚いて、「鉄砲!鉄砲!」と叫ぶと、隊列の鉄砲隊は「発砲命令」だと思い込み、威嚇射撃を始めてしまった。
 事件で死傷者は出なかったが、神戸沖に停泊していた列強の軍艦が結託し、神戸市街地が占領されてしまう。
 新政府は動揺した。旧幕府軍と新政府軍の内戦を、もっとも喜んで見ているのは欧米列強である。しかも、いまだ新政府は幕府から政権移譲されたことを諸外国に宣言していなかった。政府の一元化が出来ていない事態! そのため、伊藤博文が和平交渉にあたるが相手にしてもらえない。
 この混乱期に乗じて、列強は神戸ばかりでなく、日本各地を占領しかねない。
〜このまま軍事占領が続けば、香港や上海のようになってしまう〜
 フランス、イギリス、アメリカ、オランダ、イタリア、プロシア六カ国公使は連名で「発砲号令した士官の死罪」 を要求してきた。
 新政府は、列強の要求に屈し、本来なら国内法では無罪の備前藩に全責任を取らせることにする。岩倉具視は、備前藩主に「可惜、家臣をして過渡期の犠牲たらしむるは、藩主の忍び得ざる所、外人の無礼を問ふ能はざる此場合の苦衷は洵に察するにあまりあり」と書簡を送った。
 藩主池田茂政公からの沙汰に「馬前の討死に勝り、一人不憫に思ひ入る」との一言があったことから、瀧善三郎は、大いに喜んで主命に従ったという。
 瀧善三郎の友人で、介錯をつとめた篠原正言によれば、瀧の最期の言葉は、
「去月十一日神戸に於て行列へ外国人共理不尽に衝突したるに付、吾が国法に違うを以って兵刃を加え続いて発砲を号令せしは即拙者なり。吾は遠国の者にて、朝廷斯の如く外国人を鄭重に御取扱に相成ること全く承知せず、今過月の罪科を償う為に割腹して死す。御見証を乞う」
というものだった。
 なすべきことをしただけだった。藩主の隊列を横切った外国人の無礼を咎めた行為には「吾が国法」的には何の落ち度もないはずだった。しかし、瀧善三郎は黙って、国のため、新政府(朝廷)のために、その一身に責を負い腹を切った。享年三二歳。
 新渡戸稲造の『武士道』には、瀧善三郎の切腹の様子がみえている。彼の切腹時には、列強各国七人の立会人がおり、その一人が詳しく書き残したからである。古式に則った立派な切腹を果たし、この見事な様子は、ロンドンの新聞に絵入りで報じられた。
 彼の一命をもって、新政府は本当に危うい難局を乗り切った。日本は彼の犠牲によって植民地化をまぬがれたのである。
 今、神戸は国際都市として華やいでいる。旧大使館は北野異人館として、あのとき列強に占領された旧外国人居留地も観光客に人気のスポットとなっていた。欧米風の衣装を着せてもらい写真撮影をする若い女子もいる。別に咎め立てするつもりはない。そうした行為を、「異国趣味」として楽しめるのも、実は非常に幸福なことと自覚しているなら、だ。そもそも、国が滅びていれば、それは「異国」ではないのだから。
 一方で、能福寺にある瀧さんの慰霊碑を訪れる観光客は少ない。神戸事件という国難、瀧さんの自己犠牲、武士道の精華を知る人々は、どのぐらいいるのだろう。

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