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飯島利一

Author:飯島利一
授業づくりJAPAN(日本の誇りと歴史を伝える授業づくりの会)は独立国日本の再建を志す教師の会です。誇りある日本人を育てる授業を実践し、全国の同志と支え合います。国を思い先人に感謝し卑怯をにくむ日本人、日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人を育てます。

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◎ ある新聞記事から
 次の新聞記事は、ある事故に関するもので、平成11年11月23日付『朝日新聞』一面トップの記事です。みなさんは、これを読んで、どのような印象をもつでしょうか。
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 まず新聞の見出しに注目してください。
「東京・埼玉の80万戸で停電がおこった。埼玉の狭山で空自機が墜落して高圧線を切断したからである。これにより交通・ATMも乱れた。空自機の2乗員は死亡した」と、読みとることができます。見出しは、記事の概要を知るためには大変便利なものです。
 では、この記事の見出しが最も強調している点は、どこにあるでしょう。記事の並びや文字の大きさから、そのニュースが、どのように価値判断されているかが分かります。
 見出しの字が最も大きく、白抜きで目立つのは、「東京・埼玉80万戸停電」です。つまり、この記事は、事故によって東京都や埼玉県で80万戸が停電になった事態を、最も大きく報道しているということです。
 たしかに記事の詳細にも、「この停電のため、首都圏のJRや私鉄が一時止まり、約6万5千人に影響した。また、防衛庁長官が記者会見で陳謝し」、今回の事故について「乗員2人が死亡するとともに東京電力の高圧線を切断しました。このような事故が発生したことは誠に遺憾で、今なお一部の方々にご迷惑をかけています。心からお詫びします」とあります。
 このように記事を読むと、停電の原因となった空自機(航空自衛隊機)に対して、新聞の読み手はどのようなことを感じるでしょう。生徒には次のように問いかけます。

問:この記事から、墜落した空自機に対して、どんな印象をもちますか。

多くの生徒が、次のように答えました。
A 大事故を引き起こして、とても迷惑だ。
B 危険。あぶない。自分たちの上に落ちたら怖い。
生徒は素直ですから、新聞のねらい・意図のとおりに反応していると言えるでしょう。


◎ 事故はどのようにして起こったか
 大停電を引きおこした航空自衛隊機の事故は、どのような状態で起こったのでしょうか。その実態を探るために、まず事故機と管制塔の交信記録、また当日の目撃者証言から再現してみましょう。
 平成11年11月22日、13時2分。
 航空自衛隊パイロット、中川尋史二等空佐と門屋義廣三等空佐は、飛行訓練のため、T33練習機に搭乗し、航空自衛隊入間基地を飛び立ちました。2人とも、航空学生*出身で飛行時間5000時間を超えるベテランのパイロットでした(航空学生は、将来自衛隊のパイロット等を養成するコースで、第12飛行教育団で約2年間、基礎教育・飛行訓練を受ける。入隊時からパイロットをめざしているので、技量の優れたパイロットが多いと言われる)。
 この訓練は、「年間飛行」といって現場を離れたパイロットの技量維持が目的でした。そのため、内勤になった中川二佐が、前部のコックピットに乗って機長として操縦桿を握り、現役パイロットの門屋三佐が教官として後部席に乗りました。約40分の飛行予定は、高度な技量を要する訓練とは程遠いものでした。
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 13時38分、入間基地の管制塔に、2人の乗ったT33から無線連絡が入りました。
「マイナートラブル発生」
 そのとき、T33は入間基地まで北東39キロ、高度760メートルの位置を時速450キロで飛行中でした。
「マイナートラブル」。つまり、このとき、中川機長は軽いトラブルと認識していました。機体に異常な振動があり、オイルの臭いがすると伝えています。
 13時39分、さらに無線が入ります。
「コックピット・スモーク」
 操縦室に煙が充満したので、直線距離の最短コース(ストレートイン)でもどるとの連絡です。このとき、基地から約18キロの地点でした。
「大丈夫だろう。降りられる」
 中川機長は落ち着いた声でそう言うと、基地への帰路を確認しました。
 ところが、13時40分。
「エマージェンシー!(緊急事態)」
 T33が「緊急事態」を告げます。管制塔は、瞬時に緊張に包まれました。
 エンジントラブルは思ったよりもひどく、機体はどんどん降下していきます。当日、複数の地域住民が目撃したところによれば、「プスンプスンと変な音を立てながら、機体が急降下していった。エンジン音はしなかった」(現場から数百メートル北に住む男性)「飛んでいるときのエンジン音はしなかった」(近くに住む主婦)と、エンジンはすでに止まっていたと考えられます。
 2人はエンジン停止という状況下で、あらゆる手を尽くしますが、急激に高度が低下し、もはや基地への帰還は困難と判断したようです。
 13時42分14秒。
「ベールアウト!(緊急脱出)」
 中川機長から、緊急脱出が宣言されます。
 高度は360メートル、基地まであと4キロの距離でした。
 脱出するには、ある程度の高さが必要で、この機の場合、300メートルなければパラシュートが十分に開かないのです。
 しかし、その13秒後の13時42分27秒。
「ベールアウト!」。
 管制塔がふたたび同じ言葉を受信。中川機長たちは、まだ脱出していなかったのです。高度は300メートル、安全に脱出できるギリギリの高さでした。しかし、この受信を最後に、中川機長からの無線連絡は途絶えます。
 そして9秒後の13時42分36秒。
 2人の乗ったT33は、地上約60メートルの高圧送電線に接触、入間川の河川敷に墜落しました。これにより、東京・埼玉で80万世帯に停電が起こったのです。
 T33が送電線と接触する直前、近所の目撃者が乗員1人の脱出を見ていました。高度約70メートル。後席の門屋三佐でした。門屋三佐はパラシュートが完全に開かないまま墜落し、地面に叩きつけられ、亡くなりました。中川機長の脱出は、高圧線と接触したその瞬間だったようです。垂れ下がった送電線のほとんど真下に中川機長は放り出され亡くなっていました。


◎ 事故の真相を探る 2回のベールアウトの謎
 事故の概要を見てみると、ひとつの疑問が浮かびあがってきます。T33練習機に乗っていた2人の自衛官が、「ベールアウト」すなわち、緊急脱出したのは、高圧線に接触する直前と、接触した瞬間です。
 しかし、2人は墜落する22秒前の13時42分14秒、さらに9秒前の42分27秒と、2度にわたり「緊急脱出(ベールアウト)」を宣言しています。にもかかわらず、どうしてすぐ脱出しなかったのでしょうか。そのときに脱出していれば、パラシュートの開く十分な高度があり、2人が亡くなることはありませんでした。この22秒間に、はたして何があったのでしょうか。

T33の主な交信記録
13:38 「マイナートラブル発生」
13:39 「コックピットスモーク」
・ 「大丈夫だろう.降りられる」
・ 「ストレートインしたい」
・ (ストレートインで着陸よい)
13:40

・ 「エマージェンシー」
13:41 (エマージェンシーの種類は何か)
・ 「コックピットスモーク」
38秒 (ポジション確認?)
・ 「5マイル=9.3キロ」
13:42
14秒 「ベールアウト」

27秒 「ベールアウト」
36秒 入間川河川敷に墜落

「 」はT33、( ) は管制塔の交信を示す

 ここは生徒に注目させたいポイントです。次のように問いかけて、事故の真相に迫ります。

問:すぐに脱出しなかった原因(理由)について、考えられる状況を想定して推測してみましょう。

いろんな視点からの推測が成り立ちます。生徒は、おもに次のような可能性を指摘しました。
A 脱出装置が故障して作動しなかった。もしくはパラシュートが壊れていた可能性がある。
B コックピット・スモークとあるので、煙で周りが見えず視界がわるかったのではないか。あるいは、煙のため脱出のスイッチがすぐにわからなかったのかもしれない。
C ベテランだったとはいえ、死ぬかもしれないという不安と焦りで、気が動転してしまった。緊急対応になれていなかったではないか。
D 機体の高度が下がるのが予想以上に速く、油断していたのかもしれない。
最初のA.B.の意見は、航空機そのものに何らかの原因があったとする考え方です。またC.D.のようにパイロットの精神状態や心理に注目した意見も出ました。
 この真相をさぐるヒントとして、墜落直前のパイロットの視界を推測した航空写真を見てください。次の3枚の写真は、自衛隊関係者の資料や新聞報道をもとに推測して、グーグルアースというソフトでつくったものです。(A)ベールアウト1回目・(B)ベールアウト2回目・(C)墜落直前を示しています。2人のパイロットの視界を推測することで、すぐに脱出しなかった理由がわかるかもしれません。

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 少しずつ機体が降下して、地上が接近している様子が分かると思います。AからCまでを順に見ていくと、何か気づくことはありませんか。しだいに視界から消えていくものがあります。教室で生徒に尋ねたら、「あっ、わかった。住宅街だ」と声があがりました。これは、2人の行動を理解する鍵になるのです。
事故の翌年4月、空自の事故調査委員会が発表した調査結果があります。これによると、パイロットが一回目の「ベールアウト」を通報した13秒後にもう一回、同じ言葉を叫んでいたことについて、「いったん脱出しようとしたが、さらにもう少し頑張ろうとしたため」ということが分かりました。
 いったい、彼らは何を「頑張ろう」としたのでしょうか。
 実は、最初に「ベールアウト」を宣言したとき、2人の眼下には、狭山ニュータウンの住宅街が広がっていたのです。彼らは危険を承知しながらも、地域住民に被害が及ばぬよう、何とか機体をコントロールして、人のいない入間川の河川敷まで機体を運び、そこで墜落したということなのです。
 結局、2人は高度70mという墜落ぎりぎりのところまで踏ん張りました。高圧電線を切断して大規模な停電を発生させたとはいえ、民間の生命・財産に重大な被害を与えずに済んだのです。
 もし身の安全を考え、高度300メートルで脱出していれば、彼らの命は助かったでしょう。しかし、T33は住宅街に落ち、停電どころの騒ぎではなかったはずです。
 2人は己自身にせまりくる死の恐怖よりも、「国民の生命財産を守る、その使命のためには自らの命を懸けても職務を遂行する」という自衛官の宣誓を、身を以て実行したのです。


◎ 2人はどのようなパイロットだったのか
 亡くなった2人の自衛官、中川尋史さん(享年47)と、門屋義廣さん(享年48)。何故、このような決断と行動ができたのでしょうか。
 2人はどのような人だったのか、中川さんと航空学生入学時からの同期生で、門屋さんのこともよく知る現役航空自衛隊員の加藤氏(仮名)に話を聞きました。
 中川尋史さんは、長崎県佐世保の出身で、地元の高校を卒業後、昭和47年に航空学生(第28期)となりました。自衛隊のパイロットに憧れる若者は多く、航空学生になるのは、大変な難関でした。およそ70名(当時)の募集枠に対して、毎年約3000名以上の志願者があり、学生の内、3分の1くらいは浪人経験者でした。その多くの学生同様に、中川さんも戦闘機のパイロットに憧れる少年の1人だったのです。
 自衛官となった中川さんは、その後、指揮幕僚課程(CS)に合格。これは、航空自衛隊の将来を担っていく優秀な人材(幹部)を育成する部署で、ごく少数の隊員が厳しい試験で選ばれました。
 もちろんパイロットとしても非常に優秀で、優れた技量が要求される飛行教導隊のアグレッサ(戦闘機のパイロットを訓練するための仮想敵機役)の任務についたほどでした。
 門屋義廣さんは、愛媛県出身で、やはり航空学生(第25期)から叩き上げのパイロットでした。操縦者としての腕は抜群で、早くからF15戦闘機に搭乗し活躍していました。一般に戦闘機の場合、飛行2000時間を越えると、ベテランのパイロットとされていますが、門屋さんはそれを大幅に超える6492時間。生涯現役の操縦士の道を歩んだ門屋さんは、筋金入りのパイロットだったのです。いつも笑顔を絶やさない飄々とした性格で、門屋さんの怒ったところを誰も見たことがないほど優しい人だったといいます。

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「AIRワールド」8月号1998より
平成10年、福岡県第8航空団にいた中川さんの第6飛行隊が、戦技競技会で優勝。この時、中川さんは、「優勝できたとしたら、それは整備員のおかげ。彼らを撮ってやってほしい」と返して、整備員全員の撮影となったということです。

 中川さん、門屋さんも含め、自衛官は一つ一つの任務を遂行しながら、しだいに自分なりに問いかけ、そして体得し、芽生えてくる意識があるといいます。
 なかでも、もっとも重要な問いかけのひとつは、自分の乗っている飛行機が故障したら、どう行動すべきか、その時の覚悟についてです。これは航空自衛隊のパイロットであれば、誰もが考え、自ら悟っていくものだといいます。
 昭和49年、名古屋第3航空団ではF86F機が故障し、市街地に墜落する事故が起こってしまいました。パイロットは、緊急脱出することなく、亡くなりました。その事故が起こって間もなく、中川さんは名古屋に着任しています。ですから、この事故は、中川さんにとってまったく他人ごとではありませんでした。もし、自分がこの機に乗っていたら、どうしていたか、考えさせられたことでしょう。
 中川さんや門屋さんだけでなく、航空自衛隊パイロットは、こうした事故を自分のこととして受けとめ、たとえば死についても考え、パイロットとしての任務にあたるようになるのです。
 自衛隊が組織として、「事故の時は、こうしなさい」とあれこれ強制することはないそうです。しかし「地上に被害を与えて、自分が助かってしまうのは潔しとしない」という覚悟が、しだいに芽生え、自分の中で育まれていくのだそうです。
 加藤氏は、中川さん、門屋さんの最後の心境について、次のように語りました。
「あくまで推測だけれども、……ベールアウト自体、初めての経験だから、そのときの緊張は最高度だったと思う。ただ、ボイスレコーダーに記録された声を聞くと、とても落ち着いていますよ。……もうここまでやった。……これ以上は……、あとは天に任せるという心境だったのじゃないかと。
 だから、民間に被害を出さないように、かといって、高度的には(無事に脱出するのは)難しいとは判っていたけれど、自分自身も生きることに最大の努力を払っただろうと思います。
 このような行動は、日本人のDNAの中にあるではないかと思います。「武士道」というか……長い時間をかけて歴史の中でつくりあげた日本人のメンタリティー(精神性)、あるいは国民性と言ってもいいかもしれない。
 この事故については、よく「自己犠牲」と言われているけれども、私は、利他の精神(自分のことを顧みず、他の幸福を願う心・他の利益を優先する精神)だと思います。ただ自分を犠牲にすればいいというのではない。誰からも強制されず、人のために行動する。これは日本人が、ずっと歴史を通して人間関係の中で育んできたことです。だから、おそらく中川も、最後まで自分も生きようとしながら、ほんの一寸の差で生きられなかったんだなと思います。
 それから、これは何も中川だけでなく、多分、航空自衛隊のパイロットは、みな思っていることだと思う。あえて口に出しては言わないけれど。それから多分、皆さんも同じような状況におかれたら、自衛官でなくとも同じように行動するのではないかな……私はそう思います。
 日本の今の若者は…と云々されるけれど、そういう環境の中で過ごせば、自然にやっぱり考えることですよ。日本人の国民性といいますか、それなりに行動はできると思っています」。
 加藤氏の語ったことについて、みなさんはどのようなことを感じたでしょうか。生徒たちには、氏のいう「日本の今の若者」として、この話をどう受けとめたのかを考えてもらうために、次のように発問しました。

問:「日本の今の若者」として、もしあなたがパイロットの立場だったら、どうしたと思いますか。

この問に対しては、すぐに書き出せなかった生徒が少なからずいました。自分だったどうするか、どうすべきか、悩んでいた様子です。以下が、生徒のおもな考えです。
A ふだんかっこいいことを言っていても、いざその事態に陥ったらすぐに脱出してしまうかもしれない。この2人の行動はすごい。尊敬します。
B たぶんパニックになって、落ち着いて何も考えられないと思う。
C 同じ立場になっていないので分かりませんが、きっとすごく怖かったと思います。そんな中で他人のことを考えられるのはすごいと思うし、自分にはできないことだと思いました。
D 死ぬのは怖いと思ってしまうかもしれないけど、私も多分2人と同じ行動をとると思う。住宅街に突っ込んでまで自分が生きていても、その後の人生、後悔しつづけると思う。
E 300Mのところで脱出すると思う。2人の行動はすごいけれど、その時にならないと判断できないが、今はやっぱり自分の命が大切だと思ってしまう。
 多くの生徒の考えは、A.B.C.に近い内容でした。しかし中には、D.のように「同じ行動」をとると答えた生徒もいます。また、「2人の行動はすごい」と感じつつ、最終的にE.のように考えた意見もありました。
 もちろん答えは一つではありません。それから、パイロットのようになるべきだとも言いません。いろんな考え方があってよいのです。自分の人生観や死生観のようなものが反映され、自身の考え方の根本が確認できるはずです。みなさんは、どのように考えるでしょうか。


◎ 事故から学ぶ大切なこと
 事故から6日後、新聞(『朝日新聞』平成11年11月26日付)の投書欄に狭山市の現場近くに住む主婦の一文が掲載されました。
「特攻で操縦経験のあった父から、自衛隊の飛行機は必ず河原に落ちてくれるから大丈夫と聞かされていました。今回はまさにその通りです。切れた送電線のすぐ近くで、小学生の娘は遊んでいました。中学校には息子がいました。でも、みんな無事でした。……亡くなった自衛隊員の方には感謝しています。……翌朝、橋の上から事故現場を見ていた1人のご老人が合掌されていました。私も同じ気持ちです」。
 平成11年11月25日、殉職された中川さんと門屋さんの葬送式が航空自衛隊の入間基地飛行場地区で行われました。遺族代表として、中川さんの弟さんが挨拶に立ちました。
 弟さんは、自衛隊関係者が「あと3秒早く脱出していたら助かっただろうが、そうすれば、民家に突入してしまっていただろう」と話すのを聞いて、声を詰まらせながら、次のように語りました。
「私には自慢できるものがありました。小さい頃から憧れたパイロットを兄にもつということです。兄の死に遭遇し、今後はもっと自慢できるようになった」。
 また、門屋さんのお兄さんは、「今回の事故では、故人の尊い犠牲よりも都会の停電が大きくとりざたされた。わが国の防衛に命を懸けてきた故人は何だったのか、やるせなさを感じた」と言いました。

 みなさんは、この事故について、何を考え、どのような気持ちになりましたか。最後に、まとめの質問をして、この話は終わりです。

問:最初に読んだ新聞記事と比較して、もし自分が記者だったら、どんな記事を書きま すか。あなたの伝えたいメッセージを記事にしてください。

 事故の真相を知った生徒は、すでに新聞の報道を鵜呑みにできないことに気づいています。とりわけ、亡くなった自衛官2人の決断と行動、さらに加藤氏の話から自衛官の職務に対して、つよいインパクトを感じたようです。生徒は、次のように考えました。
1 「勇敢な2人の航空自衛隊員、住民を救う! 自分の命か、住民の命か、2つの選択だった!」
2 「埼玉を助けたパイロット2人」これが一番重要だと思う。前の記事では2人がまるで悪役みたい。
3 「たくさんの命を救った尊い2つの命が失われた」この事に、私たちは感謝しなければならない。
4 「私たちは、2人の勇気ある人物に命を救われました」
5 「空自機の2乗員が自分の命をかえりみず、多くの住民を守った」 停電などの被害のことよりも、2人のパイロットについて記事を書きたい。
みなさんは、どのようなメッセージをつづるのでしょうか。


【生徒の感想】
 このお話は、高校1年生を対象とした授業をもとにしたものです。その生徒たちが書いたおもな感想を紹介します。
• 中川さんと門屋さんは、自衛官として当たり前のことだと思っていたかもしれないけれど、僕はとても2人のことを尊敬する。自分には絶対できないし、たぶん想像することもできないでしょう。2人は本当に立派だと思います。また門屋さんのお兄さんが言ったことはとても深い言葉だと思った。僕もあの新聞記事は、2人の気持ちをどう考えていたのか不思議に思った。

• 人のことをこんなにもよく思える人が死んでしまったのは、もったいないと思った。この授業で生死について考えさせられた。中川さんや門屋さんの死よりも大都市の停電を取り上げてしまうマスコミや、防衛庁長官が言った「誠に遺憾」という言葉は、こういう人の死の状況をよく知ってから言ってほしかった。2人ともよい人です。こんな人になれるように頑張りたい。

• 最初は迷惑だなと思ったけど、資料を読んでいくうちに、2人の人物像が見えてきて、2人はなんてすごい人なんだと思った。自衛隊が誇りに思っていることが、日本の「武士道」なら、とてもかっこいいと思った。

• 私は狭山市に住んでいて入間川の河川敷で昔よく遊んだりしていました。初めは迷惑だなと思っていましたが、いろいろな資料を読んでいるうちに、入間川の近くに祖父母が住んでいるので、もしかしたら死んでしまっていたかもしれないと思うと、停電程度で済んだことを感謝したい気持ちになりました。家に帰ったら、事故のことを母や父に詳しく教えてもらいたいとおもいます。

• 日本っていい国だと思った。たしかに殺人事件なども絶えないけれど、いい人もいっぱいいるのだなと思った。日本の武士道などの文化は長い日本の歴史があるからこそ成り立っているのだなと思う。

• やっぱり日本人には「武士道」があり、この事故はそれを体現するようなものなのだと思います。現代人みんながこういう場面で、この2人みたいな行動が取れるなら、くだらない殺人や、いじめなども無くなるのだろうと思いました。こいうことに深く考えることも、とても重要なことだと思いました。

• 最期まで自分の生き方を曲げなかった2人の自衛官に感動した。自分のことを考えるだけではこんなことはできないとおもう。自分のことより、自分のすべきこと・自分のできることを考えていたのだと思う。2人の勇姿に、僕も合掌したい。

• 昔おきた事故をピックアップしてこのような授業をすることに、とても関心がわいた。新聞記事では書いていない本当のことを知ることはとても大切で、その人の立場になってものごとを見ることがもっと大切だとおもった。自分を犠牲にしてまでも、本当に人々のことを大切に思っている行動に感動した。

• このような人々が日本にいるのだということに対して、誇りをもたなければならないと思った。普通に生活している人は、このニュースを聞いて「停電になったんだ」で終わりだが、ここまで内面的に考えることができてよかった。メディアの簡単な説明で、事故の真実が伝わらないのは何とかしなきゃいけないと思った。

• 最初記事を読んだとき、正直「自衛隊が事故を起こすなんて迷惑だな」と思った。けど、その裏には2人の乗員が「利他の精神」をもって頑張ってくれたからこそ、被害が最小限になったという背景があって、同じ日本国民として、2人の行動を誇りに思う。

• とても考えさせられた授業だった。個人的には死を美化することが大嫌いなのだが、今日に限っては微妙な気持ちになった。その死を「美しい」とは思わないが、「正しい」と、そんな風に思った。
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高等学校 歴史と文化の授業

☆はじめに
 教科書の語る縄文時代は、縄文土器をはじめとする遺物、貝塚などの遺跡など考古学的なアプローチのみで語られているために、どうしても人類史的な、一般化されたイメージでしか浮かんでこない。縄文時代が、わたしたち日本人の祖先を語っているという視点が欠けているためではないだろうか。
 縄文時代から日本人は、日本の豊かな自然と共に生きる術を学び、草原や遊牧の社会・砂漠の文明にはない、日本人独自の営みを育んできた。そして、そのなかで醸成された日本人の自然観や自然への信仰は神道の源流となり、現代の社会に受け継がれている。
 そこで、この授業では、「縄文人がいかに自然と向き合い大切にしてきたか」に視点をあてて、その思想・価値観が現代の私たちにも受け継がれていることを学ぶ。縄文人が現代のわたしたちと関わっていることを自覚することで、日本人の意識形成につなげていく試みである。

☆授業の展開
1.「となりのトトロ」はどんな生き物?
宮崎駿監督のスタジオジブリの映画「となりのトトロ」を見たことありますか。主人公のサツキとメイが、都会から田舎の古い家に引っ越してきて、森の中でクスの木の根元に棲む不思議な生き物トトロと出会う物語です。

ほんとうにたくさんの人がこの映画を見ているようですね。ジブリはすごい人気です。この映画は子ども向けのアニメ映画と言えないほど、大人が見ても面白い。家族みんなで楽しめる映画です。わたしは、美しいアニメーションで古き良き日本の原風景が映し出されると、ほんとうの映像を見ているより癒される感じがしてきます。

ところで、実はこの映画、縄文時代と密接に関わっていると言われているのを知っていますか。たとえば、サツキのお父さんは縄文時代を研究する考古学者です。そしてお父さんは、妹のメイから森でトトロと出会ったという不思議な話を聞くと、トトロが棲むそのクスノキを訪れて「昔、人と木は仲良しだった。木と話をしていたのだ」と、娘たちに語りました。その「昔」とは縄文時代を指しているのです。

それでは、トトロと縄文時代とはどのような関係があるのでしょうか。まず、トトロのキャラクターをイメージしながら、次の問題を考えてみてください。

[問題] トトロはどんな生き物でしょうか。
  (イ)森にくらす熊のおばけ 
  (ロ)クスの木に棲む神さま
  (ハ)まだ発見されていない珍しい新種の動物 
  (ニ)森の動物たちを支配する妖怪


正解はまだ伏せておきます。今日は縄文時代の人々のくらしについて学んでいきます。そのなかで、この答えは明らかになってくるでしょう。

2.三内丸山遺跡から分かること
縄文時代はいつからどのようにはじまり、この列島に生活をしていた人はどのように暮らしていたのでしょうか。

今からおよそ一万二千年前、地球の環境は氷河時代と言われる更新世から、温暖な完新世へと変化します。大陸と陸続きであった日本列島は、切り離されて現在に近い状態になり、みずみずしく緑が生い茂り、シカやイノシシなどの動物が生息する温暖な自然環境が生まれました。このような環境で縄文人たちの生活ははじまります。

そのくらしを知る手がかりの一つが、三内丸山遺跡です。三内丸山遺跡は、青森県青森市にある縄文時代の集落遺跡。一九九二年、県営の野球場建設のため、この辺りを調査したところ大規模な集落が見つかりました。縄文時代前期から中期のものと推定されたこの遺跡は、広場を囲むように住居が造られた環状集落で、竪穴住居や高床倉庫のほか、大型の竪穴住居が10棟以上、さらに祭祀に関わると見られる大型掘立柱建物が存在したと想定されるなど、これまでの縄文時代のイメージを大きく覆すものでした。

三内丸山をはじめとする最近の縄文遺跡の発掘からは、より具体的なこの時代の先人の生活の様子が明らかになっています。教科書の内容をまとめておきましょう。
(1)縄文時代の人々は、食料としてくり・くりみ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどを採取するばかりでなくクリ林の管理マメやエゴマなどの栽培も行っていたらしい。
(2)狩猟では弓矢が使用され落とし穴を利用して、イノシシやニホンシカなどを獲っていた。入江の多い日本列島では漁労が発達した。釣り針や銛などの骨角器や、石錘・土錘が発見されることから網を利用した漁法も盛んであった。
(3)丸木舟も各地で発見されており、伊豆大島・八丈島まで縄文文化が広がっていることから外洋航海術をもっていたことがわかる。
(4)縄文人はおもに日当たりが良く水辺に近い台地状に集落をつくり、定住的な生活をしていた。集落には、中央の広場を囲むように竪穴住居が環状に営まれ、貯蔵穴や墓地などがあった。  
(5)縄文時代の人々の集団は、近隣の集団とさまざま情報を交換しあった。黒曜石などの石器材料やひすいなどの分布から、遠方集団との交易も推測されている。
 縄文時代の人たちは、豊かな大自然に順応したくらしを発達させながら、逞しくそして穏やかに暮らしていた様子が浮かび上がってきませんか。

そこで、次の問題です。

[問題]次の写真は何でしょうか。
縄文ポシェット

植物をつかって袋状に編まれていることがわかります。いわゆる「縄文ポシェット」と言われるものです。このようなバックは今でも似たようなものがありますよね。

[問題]実はこのポシェットが発見されたとき、袋の中にはある物が入っていました。そのある物とは何だったでしょう。

正解はクルミです。縄文人たちは森の中に分け入って、クルミやドングリなど採取していたことがわかっています。三内丸山の縄文人が、木の実を拾い集めてムラに帰り、もしかしたら食事の支度でもするときに、ひとつだけ出し忘れてしまったクルミかもしれません。やがて、土に埋もれそのまま数千年の時を経て発見されたのです。このように想像を膨らませると、遥か太古の私たちのご先祖さまの営みが身近に感じられてきませんか。

3.縄文土器は世界最古
縄文時代は、その名の通り縄文土器がつかわれていた時代です。土器は世界各地の文明でつくられたもので、いわゆる世界の四大文明の遺跡からも数多く出土しています。そこで問題です。

[問題]世界で最も古い土器をつくったのは次のうちどこでしょうか。
 (イ)メソポタミア (ロ)エジプト (ハ)中国(殷) (ニ)日本列島


意外と知られていない事実ですが、世界で最初に土器を発明したのは縄文時代のわたしたちのご先祖さまなのです。したがって正解は(ニ)。世界最古の縄文土器は、青森県の大平山元I遺跡から出土した物で、最新の年代測定法による分析の結果、なんと1万6500年前の物である事がわかっています。ただし、これは現時点での発掘成果の結果であって、日本よりも古い土器が発見される可能性はあります。

それでも、1万6500年前と言うことはダントツで世界最古にあたっており、世界最古の文明メソポタミアでさえ土器の歴史は1万年前ぐらいにしか遡る事は出来ないのが現状なのです。これは特筆すべき日本の原始文化と言えるでしょう。私たちの先人は、世界の文明に先駆けて、豊かな大自然に順応し、その恵みによって暮らしていたと考えられているのです。

ちなみに、表面に縄目の文様をつけたことはよく知られていますが、縄目文様のみならず、縄文土器は時代によってさまざまなデザインがあり、実に多様で豊かな造型をもっていたことが注目されています。

4.豊かな自然と縄文人の信仰
縄文時代の先人たちは、豊かな自然にいち早く順応したくらしを発達させてきたことがわかりました。そこで縄文の人々の自然観についての問題です。

[問題]縄文時代のご先祖さまは、豊かな恵みをもたらし、また地震や台風などの天災をひきおこす自然をどのようにとらえたでしょうか。
(イ)自然は人のくらしを便利にするもので、利用できると考えた。
(ロ)自然を畏れ敬い、その中に神が宿ると考えた。
(ハ)自然に左右されないように、人が自立できる文化をつくろうとした。


正解は(ロ)。どうして自然に神が宿るのでしょうか。

日本の風土には生命の源となる光や水と土と緑が国土にあふれ、このため海も山も平野も生気が漲っています。そして自然には、春夏秋冬の四季があり、季節がめぐって、その姿はくり返し再生されています。その豊かな自然の恵みによって、日本列島に生活する人たちのくらしは支えられたのです。

また一方で日本では、地震・雷・台風など自然災害にたびたび見舞われます。天災の国でもあるのです。そのため縄文人たちは、豊穣な自然の恵みによって生かされていることを感謝すると同時に、自然の厳しさ・恐ろしさも感じざるをえませんでした。このことを悟ったわたしたちの先人は、自然を畏れ敬い、自然の中に霊性を感じ、そこに神が宿ると考えたのです。

一つ例を紹介しましょう。小学生の子どもの頃、真夏の夕暮れ時に、それまですごく晴れて入道雲が出ていたのに、急に空が灰色の雲覆われたかと思うと、ゴロゴロと雷が鳴りって豪雨におそわれた、という経験がありませんか。夏によくある夕立ですね。そのとき、お母さんから何か言われたことありませんか。「雷さまにおヘソを取られるから、おヘソを隠しなさい」と。心あたりのある人が多いのではないでしょうか。その時、お母さんが言った「雷さま」って、いったい誰なのでしょう。「雷さま」は、仏教の教えにも、儒教にも、キリスト教の神様にも存在しません。これは「雷」という自然現象に霊威を感じ、そこに神が宿っていると考えたものなのです。もしかしたら縄文時代以来、現代にいたるまで、日本国のお母さんたちは、ずっと子どもを諭す言葉として「雷さまにおヘソをとられる」を使いつづけてきたのかもしれませんよ。

このように、わたしたちの先人は自然を大切に、自然と共に生きる精神文化・心の文化を創りあげてきたのだと言えるでしょう。いわゆる砂漠や草原に住む民族や、常に寒冷・熱帯の気候に暮らす人々、自然に四季のうつろいが見えにくい地域とは異なった、日本独自の自然観・世界観を育んだと考えらます。

ちなみに西欧文明の自然観は(イ)(ハ)のような立場であるという指摘があります。西欧では森のあるところに文明が興りますが、自然のあり方を未開・野蛮とみなし、開発の対象と位置づけている。キリスト教会などの美しい西欧建築は、自然を取り払った広場の中に、自然を征服した姿で建築されているものが数多くあります。

5.まとめー日本人と自然との関わり
縄文時代は一万年間。その悠久の時間の中で育んだ日本の先人たちの自然観は、現代の私たちの心のうちに受け継がれているのかも知れません。

[問題]次の資料を読んで、感じたこと・考えたことを書いて下さい。

 日本人は自然に順応して暮らし、森羅万象に神を見る八百万の神々をもち、神々と共生してくらす国柄を生んだ。そして自然をあるがままに受け止め、畏敬し感謝し自然にとけ込もうという考え方である。これはその後、神道の基本となり、日本人と日本の歴史に大きな影響を与えた。日本の神はかならず鎮守の森に鎮座しているのである。
 また、日本の豊かな自然は、外国にはない日本人の豊かな情緒性を生んだ。春にさくらが、秋に紅葉が舞う儚さに、わたしたちは心が動かされ、「もののあはれ」を感じる。このような自然に対する感受性が豊かなのは日本人の誇るべき美徳と言えるだろう。さらに、環境問題へのとりくみ、エコロジー・省エネをはじめとする自然保護や環境への配慮は、私たち日本が先進国と言われている。これら自然に対する日本人の独特の想いこそ、縄文時代のくらしが今に残っている証と言えるのではないだろうか。


授業の最後に冒頭でのトトロについて答えましょう。もうお分かりですね。正解は、(ロ)「クスの木に棲む神さま」です。かわいいトトロのキャラクターはジブリによって創造されたものですが、宮崎監督がトトロに込めた思いは、自然・森に宿る神さまなのです。この映画のキャッチコピー「このヘンな生き物は、まだ日本にいるのです。たぶん。」には、「日本人の自然との共生」への願いが表現されているように感じます。

高等学校 歴史と文化の授業


☆はじめに
⒈日本人はさくらをどのように愛でてきたのか。生徒がよく知っている、さくらのヒット曲を手がかりに、和歌などの史料からさくらに対する日本人の心情を探るのが、この授業のねらいである。

⒉「さくらの散りゆくさま」が、もののあはれをはじめ、日本人の鋭い感性をあらわしてきたことを学び、さくらは日本人の心であり、日本を象徴する花であることを学習する。

さくら


☆授業の展開 (以下の○は生徒の発言である)
1.授業のテーマは何でしょうか?
今日は新学期にふさわしい授業です。

まず問題です。今日のテーマを当ててみてください。次の〔  〕のなかに入る言葉は何でしょう。

「世のなかに絶えて〔  〕のなかりせば
    春の心はのどけからまし」   『古今集』五三

これは『伊勢物語』の主人公として有名な在原業平の歌です。世の中に、これがなかったら、春はさぞかしのどかに過ごすことができだろうに、ということです。何がなかったら、春はのどかなのでしょうか。


○・・・?分からない。

それではヒントをだしましょう。次キーワードから連想される言葉が[ ]の答えです。
(次の語句を一つずつ生徒に提示する。①遠山の金さん ②上野公園・靖国神社 ③森山直太朗・ケツメイシの歌 ④入学式・新入生など。)

○あっ、わかった。さくらだ。

そう、正解。みなさんは、さくらからどのような連想をしますか。今日は、わたしたち日本人が、どのような想いでさくらを見てきたのか、そしてさくらは日本人にとってどのような存在なのか、みなさんといっしょに探っていこうと思います。


2.現代若者のさくらのイメージ
まず、現代の私たちの場合。最近見られる「さくら」に関するヒット曲から考えてみましょう。最近のJポップで「桜・さくら」のつくものにどんなものがあるでしょうか。

○コブクロのさくら

○さくら(森山直太朗)
○サクラドロップス(宇多田ヒカル)
○サクラ咲ケ(嵐)
○桜坂(福山雅治)

こうしてあげていくと、意外に「さくら」の曲はいっぱいありますね。しかも誰もが知っている大ヒット曲です。実はこれらの曲の歌詞を読んでみて、面白いことに気づいたのです。

【問題1】 次のヒット曲(抜粋)は、さくらのどのような様子を歌っているでしょうか。共通して言えることは何でしょうか。
1.さくら(森山直太朗)

  「さくら さくら 今咲き誇る 刹那に散りゆく運命と知って」
  「さくら さくら ただ舞い落ちる いつか生まれ変わる瞬間を信じ」
2.さくら(ケツメイシ)

  「さくら舞い散る中に忘れた記憶と 君の声が戻ってくる」
  「花びら舞い散る 記憶舞い戻る」
3.桜(コブクロ)
  「桜の花びら散るたびに届かぬ思いがまた一つ」
4.SAKURA(いきものがかり)
  「さくら ひらひら舞い降りて落ちて 揺れる想いのたけを抱きしめた」
  「君と春に願いし あの夢は今も見えているよ さくら舞い散る」

○さくらが舞っている? 散っている?

そう、そのとおり。詩の内容から共通していえることは、いずれも、さくらが散りゆく情景を描写していることです。友人や恋人との出会いや別れ、せつなく美しい思い出など、想いはいろいろだけれど、すべてさくらの散る様子に託してうたっているのです。咲きはじめや満開ではなく、何故さくらの散りゆくさまに、その心情をこめるのでしょうか。


3.「さくらの散りゆくさま」を日本人はどのように見たのか
わたしたち日本人が散りゆくさくらに魅了され、想いを込めるのは、歴史をさかのぼって確かめることができます。そこで私たちにとって「さくらの散りゆくさま」は何を表現しているのか、和歌などから分析してみましょう。

【問題2】 つぎの和歌の〔  〕に入る言葉は何でしょうか。さくらが咲いては散っていく様子にもっともふさわしい言葉はこれ以外にないと言っています。(あ)〜(え)のどれが適切だと思いますか。
    〔  〕をほかにもいはじ桜花
     咲きては散りぬあはれ世の中  (藤原実定『新古今集』)
    (あ)かなしさ (い)せつなさ (う)はかなさ (え)うれしさ


○「せつなさ」か、「はかなさ」だと思う。

○「うれしさ」はないと思う。

なかなかいいですね。日本的な感性だと思いますよ。正解は(う)です。これは、貴族から武士の世にかわり、時代の移ろいを嘆く、大徳寺左大臣藤原実定の歌です。
満開のさくらが散っていくさまは、諸行無常・盛者必衰などの仏教的な無常観を表現しているといわれます。この無常観は、やがて、「もののあはれ」という日本人的な、独特の情緒につながっていきます。「もののあはれ」とは、人間のはかなさや悠久の自然の中で、移ろいゆくものを美しいと感じる感性を言います。散りゆくさくらが美しいと思うのは、まさにこれにあたるといえるでしょう。

「もののあはれ」から、さくらを最も愛した歴史人物、さくらを詠んだ歌人といえば西行法師の名があがるでしょう。西行は『山家集』のなかで、さくらの和歌を140首も詠んでいます。

【問題3】 西行は『山家集』に載るある和歌で、「願わくば」と詠んで、さくらの花の下で「あること」を叶えたいと思っていました。その「あること」とは何でしょうか。
     (あ)酒がのみたい (い)踊りたい (う)死にたい (え)眠りたい


○(あ)だったら、お花見になる。

○(う)かな。たしか桜の下に死体が埋まっているというのを、何かで聞いたことがある 。

よく知ってますね。そういう小説もあります。この和歌は、西行がとてもさくらに憧れていたことを物語るものとしてよく知られています。正解は(う)。
「ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」。実際に、この歌の通り、西行はさくらの季節満月のもとで生涯を閉じたということです。西行はさくらとの一体化を望むほど、その美しさ・はかなさ「もののあはれ」にのめり込んでいたのではないでしょうか。

散りゆくさくらを美しいと思う気持ち、いわゆる「もののあはれ」という情緒は、日本人がとりわけ鋭いと指摘するのが、藤原正彦氏です。 近年話題のベストセラー『国家の品格』のなかで、「情緒と形の国、日本」と題して、すぐれた日本人の感性について述べています。資料を一読してください 。

【資料1】
悠久の自然と儚い人生との対比の中に美を発見する感性、このような「もののあはれ」の感性は、日本人がとりわけ鋭い。(中略)
この一例が桜の花に対するものです。桜の花はご存知のように本当に綺麗なのはたったの三、四日です。しかも、その時をじっと狙っていたかのように、毎年風や嵐が吹きまくる。それで「アアア」と思っているうちに散ってしまう。日本人はたった三、四日の美しさのために、あの木偶の棒のような木を日本中に植えているのです。
桜の木なんて、毛虫はつきやすいし、むやみに太いうえにねじれていて、肌はがさがさしているし、花でも咲かなければ引っこ抜きたくなる木です。しかし、日本人は桜の花が咲くこの三、四日に無常の価値を置く。たった三、四日に命をかけて潔く散っていく桜に、人生を投影し、そこに他の花とは別格の美しさを見出している。だからこそ桜をことのほか大事にし、「花は桜木、人は武士」とまで持ち上げ、ついには国花にまでしたのです。(中略)
アメリカ・ワシントンのポトマック川沿いにも、荒川堤から持って行った美しい桜が咲きます。日本の桜より美しいかもしれない。しかしアメリカ人にとってそれは、「オーワンダフル」「オービューティフル」と眺める対象に過ぎない。そこに儚い人生を投影しつつ、美しさに長嘆息するようなヒマ人はいません。


日本人のさくらに対する気持ちが、面白く理解することができます(傍線部を中心に説明する)。朽ちゆくもの・枯れゆくもの・滅びゆくものに、美しさを感じる心は、欧米人には、およそ理解できないのかもしれませんね 。


4.さくらのイメージ 日本人の心
藤原正彦氏が説くように、私たちの先人は、さくらを「国花」と考えるようになりました。さくらは、日本を象徴する花と位置づけられるようになったのです。

【問題4】 次の歌は国学者本居宣長の詠んだもの。〔   〕に入る言葉を考えましょう。宣長は何をたとえて「朝日ににほふ山桜花」と言ったのでしょうか。
   敷島の 〔   〕を 人とはば
 朝日ににほふ 山桜花


○朝日だから、日出ずる国のようなことかな?
○日本のこころのような言葉じゃない?
○大和魂みないな。

答えは、ずばり「大和心」です。日本人の心を指して、大和心(やまとごころ)と表現しています。その心は、清々しい「朝日ににほふ山桜花」であると詠んでいるわけです。


本居宣長の思想は、幕末・明治維新前後から、日本人のナショナリズムに大きな影響を与え、宣長のこの歌によって「桜=国花」というイメージが定着するようになったといいます。
明治時代になると、桜のなかでも、ソメイヨシノ(染井吉野、江戸末期の新種)が人気を呼び、城跡や公園・堤防や学校に盛んに植栽され、さくらのイメージが日本人の間に普及していきました。

それでは、本居宣長が、さくらに喩えた「大和心」(日本人の心)とは、何を表しているのでしょうか。 次の資料にあげた新渡戸稲造の『武士道』(奈良本辰也訳)を読んでいきましょう。

【資料2】
たしかに、サクラは私たち日本人が古来から最も愛した花である。そしてわが国民性の象徴であった。宣長が用いた「朝日ににほふ山ざくらばな」という下の句に特に注目されたい。
大和魂とは、ひ弱な人工栽培の植物ではない。自然に生じた、という意味では野生のものである。それは日本の風土に固有のものである。その性質のあるものは偶然、他の国土の花と同じような性質を有しているかもしれない。だが、本質において、これは日本の風土固有に発生した自然の所産である。
また私たち日本人のサクラを好む心情は、それがわが国固有の産物である、という理由によるものでない。サクラの花の美しさには気品があること、そしてまた、優雅であることが、他のどの花よりも「私たち日本人」の美的感覚に訴えるのである。私たちはヨーロッパ人と、バラの花を愛でる心情をわかちあうことはできない。バラには桜花のもつ純真さが欠けている。それのみならず、バラはその甘美さの陰にとげを隠している。バラの花いつとなく散り果てるよりも、枝についたまま朽ち果てることを好むかのようである。その生への執着は死を厭い、恐れているようでもある。しかもこの花にはあでやかな色合いや、濃厚な香りがある。これらはすべて日本のサクラにはない特性である。
私たち日本の花、サクラは、その美しい粧いの下にとげや毒を隠しもってはいない。自然のおもむくままに、いつでもその生命を棄てる用意がある。その色合いは決して華美とはいいがたく、その淡い香りには飽きることがない。(中略)
太陽は東方から昇り、まず最初に極東のこの列島に光を注ぐ。そしてサクラの芳香が朝の空気をいきいきとさせる。このとき、このうるわしい息吹きを胸一杯に吸うことほど、気分を清澄、爽快にするものはないであろう。


新渡戸は、日本の武士道を世界に紹介するために、英文でこの本を書きました。その中で、「武士道」という日本人の精神を、さくらにたとえている。とりわけ、さくらのぱっと咲いて、ぱっと散るさまに、日本人の高潔さ・いさぎよさという美徳を見出しているのです(傍線部を説明する)。

このさくらのイメージは、日本人の美徳を示すものとして、日本人(とくに軍人)のあるべき姿として、とらえられるようになりました。「同期の桜」をはじめ、軍歌などにも盛んにさくらがうたわれています。兵隊さんたちは、散りゆくさくらに自分を重ね合わせていたのです。

【資料3】
①いざさらば 我は御国の 山桜
 母の御元に かえり咲かなむ  (海軍中尉、緒方襄)
②散る花の いさぎよきをば めでつつも
 母のこころは かなしかりけり
③蕾にて 散るも又よし 桜木の
 根のたゆことの なきを思へは  (海軍少尉、滝沢光雄)


①を詠んだ緒方中尉は、関西大学在学中に学徒出陣し、パイロットになり、志願して神風特別攻撃隊の桜花隊に入いりました。この歌で息子の思いを知った母、三和代さんは②の歌を詠みました。中尉の歌は、祖国日本のために命を捧げる高潔さ・いさぎよさが、散りゆくさくらに託されています。

③を詠んだ滝沢少尉(当時は一飛曹)は、甲種飛行予科練習生に志願し、昭和19年、第一神風特別攻撃隊山桜隊の隊員としてレイテ湾にて戦死を遂げました。 蕾のままでもよいと歌った滝沢少尉は、当時何歳だったと思いますか。実は、みなさんとほぼ同じ18歳だったということです。


5.日本人にとって桜とは?〈まとめ〉
今日は、わたしたち日本人のさくらへの想いを考えてきました。やはり、わたしたちにとって花とは、菊でも、チューリップでも、バラでもなく、さくらなのだなという実感が湧いてきませんか。


歴史的に見ていくと、日本人は、その時代の心情を、さくらに託してきたということです。
「さくらの散りゆくさま」は、「もののあはれ」という日本人の独特の情緒をあらわし、やがて日本人の心となって、とくに高潔さ・いさぎよさを表現してきたことがわかります。

まさに、さくらは私たち日本人を代表する、日本を象徴する花と言えるでしょう。そして、日本人がうけついできた桜のイメージは現代のヒット曲のなかにも通じるものがあるのではないでしょうか。


☆生徒のおもな感想
○桜はぼくの大好きな花です。日本人にふさわしい花だと思います。派手すぎず、そして早いうちに散ってしまう、いさぎよさがぴったりです。小学校のときに桜の詩を書いて先生にすごくほめられたことが今でも心に残るさくらの思い出です。

○桜の季節になると、なぜ天気予報とか、みんなで取りつかれたように騒ぐのだろうと思っていたけれど、今日の授業で、さくらと日本人の深いかかわりを知ることができた。

○わたしは、満開のさくら道を歩くのが好きです。それから、外国の人はさくらをあまり好きでないというのを聞いたことがあります。でも日本人ならではの、その良さを共感しえることは、うれしいことだと思いました。

○さくらはどの時代でも人々から愛されている花だなと思った。日本人は感受性が豊かなので、その時代、その歌を詠んだ人の心情を知ると、とても奥が深いものだなとおもった。

○散るさくらに対する日本人のイメージは今も昔も変わっていない部分があるのだなと思った。昔の和歌からいろいろ情景とか心情とかを考えられて勉強になった 。


☆参考文献
①牧野和春 『新桜の精神史』 中公叢書

②小川和佑 『桜の文学史』 文春新書 2004

③田中秀明 『桜信仰と日本人』 青春出版社 2003

④白幡洋三郎 『花見と桜』 PHP新書 2000

⑤藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005

⑥新渡戸稲造・奈良本辰也訳『武士道』 三笠書房 1993

⑦靖国神社編 『いざさらば我はみくにの山桜』 展転社 1994

⑧靖国神社編 『散華の心と鎮魂の誠』 展転社 1995


高等学校『日本史B』の「戦国大名」を教えるための新しい視点として

☆はじめに
平成19年度のNHK大河ドラマ「風林火山」を見ていて、面白い発見があった。たしかその年の7月はじめ頃の放送である。ちょうど全国大会の直前であり、私は模擬授業で「武士の公共的精神」を扱う予定だった。そのため、戦国武将がもつ公共的な性格についても、あれこれと関心をもっていた。

ドラマは、武田晴信(信玄)が分国法「甲州法度之次第」を制定する場面を映し出していた。晴信は、法度を起草した駒井高白斎に相対し、それに目を通している。やおら、駒井は、目の前の晴信に、法度にもう一条を書き加えて欲しい旨を言上した。訝しげな表情の晴信に対し、駒井は、条文の最後に「家臣や領民のみならず、領主・晴信自身もこの法度を遵守する」と約定して頂きたいと申し出たのである。晴信は駒井の提案を承けて、大きく頷き、最後の条文を自ら書き加えた。

分国法といえば、戦国大名が領国を支配・統制するために作ったというのが、教科書的な説明である。法に拘束されるのはあくまで家臣・領民であり、大名は法から自由であったとされている。だが、ドラマで晴信が法度に書き入れた条文の存在そのものは、フィクションではない。後述するように天文十六年(1549)制定の法度二十六カ条のうち、最後の条文に実在している。

大河ドラマのワンシーンとはいえ、従来の教科書的な戦国大名像とはちがった興味深い一面を見つけることができた。これこそ戦国大名が公共的な性格を持っている好例といえるのではないだろうか。以下、具体的に検討していきたい。

 
1.教科書が語る戦国大名のイメージ
最も多くの高校生が利用している教科書は、山川出版の『詳説日本史B』である。まずは、そこで戦国大名がどのように説明されているのかを確認しよう。

戦国大名は、①「地域に根を下ろした実力ある支配者」②「みずからの力で領国をつくりあげ独自の支配を行う地方権力」③「新しい軍事指導者・領国支配者としての実力が求められる」とある。また戦国大名の領国支配については、①家臣団統制のために貫高制・寄親寄子制の軍事制度をもうけた。②領国支配の基本法として分国法を制定した。③指出検地を実施し、新たな征服地では農民に対する直接支配を強化した。④城下町を建設し、商工業者を統制した。

いずれも「権力・支配・統制・征服」の語句が多く使われており、この記述からは、戦国大名が自らの強大な権力で、領国内の家臣・領民を支配・統制し一方的に抑圧している、とイメージせざるを得ない。

結局のところ、問題は、戦国時代の社会的しくみが、支配者・被支配者の上下構造でとらえられていることであろう。すなわち、支配する側の戦国大名は、支配される側の領民を上から抑えつける。やがて支配される側は追いつめられ、支配する側に反発・対抗し、革命的な行動におよぶ。両者がつねに対立しあう、いわゆる階級闘争史観的な見方に陥っているのである。


2.「武士の公共的精神」の由来
平成19年度の自由主義史観研究会の全国大会で尾藤正英氏は、「武士の性格と日本歴史の特色」と題し、幕末期の志士たちがもつ武士の公共的精神について講演した。氏によれば、その精神の由来は、14世紀頃からの大きな社会変動期にさかのぼるという(その論旨は「戦国大名と幕藩体制」『江戸時代とはなにか』に詳述)。

14世紀半ばの南北朝動乱から戦国時代までの間は、いわゆる中世的な秩序が崩れ、庶民層にまで社会的変動がおこった時代である。各地域社会には、自分たちの利益を守るために、国人や地侍(武士化した上層農民)などが中心となって、「惣」とか「一揆」などと称する自治的・自律的な共同体組織を形成した。

「惣」をつくる村民らは平等意識をもち、村の運営は「寄合」という村民の合議で決定され、運営される。「惣」は、村の規約、警察権の行使、納税のとりまとめなどを通じて結束し、連帯意識の強い組織に成長していった。彼らは、各地で幕府や守護大名の支配に対抗し、土一揆をおこし、下剋上して守護を国外追放する場合すらあった。

しかし、そうした共同体組織は、戦国大名の出現とともに、しだいにその家臣となり、やがては武士団に編制され、大名の連合体としての幕藩制国家に至る。つまり、いわゆる中世的な旧体制(幕府や守護大名)に対して反発した「惣」や「一揆」は、戦国大名という新しいタイプの大名のもとに吸収されてしまったのである。

この間の推移について、教科書的理解では、戦国大名が強力な支配体制をしいたために、「惣」や「一揆」がそれに屈服し、統制されたとするのだが、尾藤氏はこれを逆にとらえた。そもそも、「惣」や「一揆」は、共同体全体の意見や利益を重視する自治的・自律的な性質が強いものである。そのため、これを弾圧するような旧体制には決して従わない。それにもかかわらず、彼らが戦国大名に従っていった理由は、その自律的・平等的な性質を認める新しい体制を、戦国大名がつくったからなのである。

このように理解すると、戦国大名が強大な権力で一方的に支配したイメージは一変せざるを得ない。戦国期の大名とは、領国の諸集団の自立性を認めつつ、領内全体の意見や利益を調整する、いわば公共性を体現する存在だと解釈するほうが合理的なのである。
 
3.武田晴信のもつ大名としての公共性 
典型的な戦国大名ともいえる武田晴信の事例を検討するに際し、まず注目すべきは、武田家の分国法「甲州法度之次第」である。さきにふれたように、教科書では、家臣・領民の自由・自主的な行動を厳しく制限し、統制するためのものと説明しているが、それは妥当なのか否か具体的に見ていこう。

①「喧嘩のこと、是非に及ばず、成敗を加ふべし」。
有名な「喧嘩両成敗法」である。この法は、大名が領内の裁判権を独占・集中するための規定といわれる。しかし、尾藤説によれば、もともと、この規定は「一揆」における慣習法だったという。たとえば、「一揆」の内部で喧嘩(私闘)がおこった場合、その社会では双方が対等の立場であるため、どちらが是か非かを判断する主体が存在しない。ゆえに判断を避けて、双方、両成敗とするしかなかった。

一般に説かれるように、戦国大名が、その領国の裁判権を独占・集中するならば、是非を判断する権限を掌握しなければならないはずである。しかし、そうしないのは、大名が主体的な判断を下さず(下し得ず)、領国内に根づいていた社会的慣行に従っていることを意味しよう。

②「晴信の形儀その外の法度以下において、意趣相違のことあらば、貴賤を選ばず目安をもって申すべし。時宜によりその覚悟をなすべし」。
これが冒頭のドラマのシーンで、晴信が書き加えた最後の条文である。晴信自身が法を犯した場合もその責を負う、という覚悟が表れている。戦国大名の晴信もこの法に拘束されたことが確認できるのだ。

①②の規定が示すように、武田晴信は領国内の慣習法、さらには自ら制定した法度から自由ではない。決して家臣・領民ばかりを統制したのでなく、法度という客観的な基準をもとに、領国全体の経営にあたっていた。大名といえども、社会的慣習などの規制のため、恣意的な領国経営はできなかったことがうかがえる。領国という新しい「共同体」の代表者=大名は公共的な性格をもち得なければ務まらなかったとみるべきであろう。

以上のごとく分国法を解釈するならば、武田晴信によるその他の諸政策も、同じ視点から理解できるのではないだろうか。

信玄堤は、氾濫する河川に堤防を築く治水事業として有名である。この事業の目的は、大名が年貢収入を確保するためという点が強調されている。大名が、重税に苦しむ領民を顧みず、税収にのみ腐心していたかのような図式だ。もちろん、領国経営のための財源確保が狙いでなかったとは言わないが、むしろ、農民の生活安定をめざした公共事業と理解する方が自然である。この治水は武田家の直轄領のみならず、晴信の直接の年貢収入にならない国人・地侍の村落を含め、領国全体に及んでいる。やはり領国経営の責任者として、全体の利益・福祉を実現していると解釈できよう。詳細な検討は稿を改めるが、このほか領内の寺社の祭祀、交通権の掌握、枡・秤の度量衡の統一、金山の開発など、公共性をそなえた政策として評価できるものが多い。

武田晴信を戦国大名の一典型と見たとき、従来の教科書的解釈は大きく変わってこざるを得ない。戦国大名は、領国を統一する諸政策を通じて、国人層・地侍層、地下衆などの諸集団を調整し、領国全体の意思や利益をまとめる役を担っていた。こうした視点で戦国大名の施策を見直せば、彼らが公共性の体現者として存在していたことが明白はある。


4.下剋上の解釈
戦国時代の社会を授業する場合、重要なキーワードは下剋上である。この理解なしに土一揆はもちろん、戦国大名の群雄割拠や、織田信長にはじまる天下統一事業も説明はできない。

教科書では、国人一揆や、北条早雲・斎藤道三などを例にあげ、下の者の力が上の者の勢力をしのいでいく現象であると記述する。これに限らず、巷間知られる下剋上とは、自らの野心や野望のために権謀術数をめぐらし、実力ある者がのしあがっていくというイメージである。戦国時代という乱世だからこそ可能な、非道で無法的な行為と印象づけられている。

しかし、戦国大名が領内の諸集団を束ね、公共的な政策を実現する存在であったとすれば、下剋上という社会現象に、また別の解釈が成り立つのではないだろうか。武田晴信の場合は、天文十年(1541)、甲斐の守護職である父、信虎を追放して家督を相続した。言わば親子間での下剋上である。そのときの様子はいくつかの史料に残されており、内容はおよそ共通している。

『勝山記』によれば、「武田大夫様、父信虎を駿河国へ押し越し御申し候、……地家・侍・出家・男女共に喜び満足致し候こと限りなし」という。百姓や地侍などの領民が、信虎の追放に満足して喜んでいるという記録である。よく知られていることだが、信虎追放は家臣・国人層が中心となって画策し、晴信は彼らに担ぎ出された御輿的・シンボル的な存在だったというのが通説である。

すなわち、武田信虎の恣意的な、つまり公共性に欠ける支配に対して、家臣や国人層は自領の自立性や領国内全体の利益を保持しようと、当主の代がわりを望んで下剋上したのである。このように下剋上の事例の多くは、その領主を戴いていると領国全体に不利益が生じるとか、あるいは領主が領国全体の意思に反したときに起こるのではないだろうか。

一方、教科書は、『大乗院寺社雑事記』をはじめ土一揆や国人一揆に関する史料をいくつかあげている。そこでは、下剋上は言語道断であると憤慨し、あるいは世も末であると嘆いている様子が看取される。しかしこれらの史料は皆、寺社の記録や公家の日記など旧体制の側から見たものばかりである。確かに下剋上は、旧体制の側から見れば、非道で無法な行為に他ならない。しかし新たな体制、公共性をもった領国経営を望む側から見れば、理のある正当な行動であった。

公共性の実現者として戦国大名をとらえると、下剋上は非合法ではあるが、領国の公共性を保持するための行為と考えることも可能であろう。江戸時代の藩経営でいえば、主君押込のような機能である。現代的にやや極言すれば、首長の「リコール」のような性格ではないか。戦国大名は領国内の諸集団を家臣化したと言っても、中世の家人や所従ごときには扱うことはできなかった。かれらの自立性を認めつつ、領国を統一する新しい社会秩序をつくりあげねばならなかった。新体制に脱皮できなかった者は、下剋上の憂き目にあうからである。


5.むすび
戦国時代から大名は、中世的な価値意識から脱却して、「惣」という自治的な村落をはじめとする諸集団をまとめ調整する役を負った。公的精神を重んじる武士のエートスはこのような社会変動の中から生まれたと考えられる。こののち、兵農分離を経て江戸時代にはより洗練された武士道の確立にいたるのであろうが、一旦、擱筆したい。



☆おもな参考文献
①尾藤正英『江戸時代とはなにか』 岩波現代文庫 平成12年
②笹本正治『武田信玄』 中公新書 平成9年
③平山 優『武田信玄』 吉川弘文館 平成18年


高等学校 歴史と文化の授業

☆ はじめに
 この授業は、齋藤武夫先生の「ご先祖さま」の授業テーマをヒントに考えたものである。「名字」をテーマとして「先人からのバトンが現代の私たちへと受けつがれている」ことを生徒に理解させる試みである。自分の名字の由来に関心をもつこと・自国の先人(先祖)への関心を深めることを通じて、歴史を身近なものに感じ、自国の先人(先祖)と、今を生きる私たちとがつながっていることを意識させることがねらいである。

☆授業の展開
1.歴史とのつながりを考えよう

 皆さんにとって身近なものをテーマに、歴史について考えてみたいと思います。取りあげるのは、名字と名前です。これまで、テストやレポートのたびに、あるいは証明書などを記入するたびに、皆さんは自分の氏名を何千回と書いてきたでしょう。その意味で、名字と名前は最も身近なものと言えるのではないでしょうか。あらためて自分の名字と名前を丁寧に書いてみましょう。

      名字(苗字)        名前        

 いうまでもなく名字と名前はあなた自身をあらわすもの。でもあらためて自分の氏名をまじまじと見るとなんか不思議な気になりませんか。たとえばわたしの場合、どうして飯島といい、利一という名前なのでしょうか。
 まず、下の名前はあなた自身、個人としての自分を表していますね。名前の由来について、お爺さんがつけてくれたとか、お父さんの尊敬する人から一字もらったとか、あなたを大切に思っている人があなたの幸せを願ってつけた、他の誰でもないあなた自身をあらわすものです。
 それでは、名字は何を表しているのでしょうか。家族はみんな同じ名字ですが、親戚でも何でもない人が同じ名字の場合があります。近年は夫婦別姓と言って、家族になったのに名字が違う場合もあります。わかるようでわからない。いったい名字はあなたにとってどのような意味があるのでしょうか。

2.名字に関する基礎知識
 そこで、わたしたち日本人の名字について、その歴史を紹介していきましょう。

問題1 日本で名字は何種類あるでしょうか。
(イ)約290 (ロ)約2900 (ハ)約29000 (ニ)約29万


 イメージでこれくらいかな?と思うものを答えて下さい。電話帳をみたって、珍しい名字がいっぱいあるから、さすがに(イ)ではなさそうですね。
 正解は(ニ)なのです。約29万種類あると言われています。ただし、中田さんのように「ナカダ」とよむ場合もあれば、サッカーの「ナカタ」選手のように濁らない読み方もありますね。これも違う名字と数えた場合です。清濁などを一つの名字に数えても約10万種類あるそうです。ちなみに中国では約500種類。朝鮮民族は249種類で、われわれの名字が桁外れに多い。つまり日本人の名字はたいへん多様で、独特のこだわり、特色があるのではないかと考えられます。
 それでは、どうしてこのように多様な名字が生まれたのでしょうか。次の問題に挑戦してみましょう。

問題2 次の中から仲間はずれ(性質の異なるもの)を一つ選んでください。
(イ)徳川 (ロ)足利 (ハ)蘇我 (ニ)綾小路 (ホ)鈴木


(ホ)鈴木だと思う人が多そうですね。ありふれているし、何か他のものに比べて新しい名字じゃないかと考えているようです。確かにクラスに二人以上いる場合があって、鈴木の名字は多いですね。(ハ)蘇我じゃないかなと思った人はどのくらいいるでしょうか。蘇我だけ、「そがのうまこ」みたいに、「の」がつくから他と違いますね。これが正解です。ほかにもこれまで古代で勉強してきた人物の多くが「物部」とか「源」「平」とか、「〜の」をつけて読みますね。
 これらは名字ではなく、もともと古代の豪族を中心とする政治集団を示すもので、「氏」(ウジ)といいます。「ウジ」は大王から与えられた「姓」(かばね)という称号とあわせて、たとえば「藤原朝臣」のように「姓」(せい)になります。それが平安時代の中頃から同姓を区別する意味で、武士の間から「通称」や「領地の地名」などを名乗るようになる。これがいわゆる名字です。「源朝臣義仲」はその領地の地名から「木曽義仲」ともいいますね。
  【ポイント】
    氏 = 古代豪族の政治集団 
    姓(かばね)=大王からの称号
    姓(せい)=あわせて姓「藤原朝臣」
    名字・苗字=同姓を区別 「源朝臣木曽義仲」 通称→領地の地名をとる等
 たしかに、氏名とか姓名とか、名字とかいろんな言い方がありますよね。こうした変遷によって、日本人の名字は多様で複雑になったのだと考えられています。固定したものをずっと継承したのではなく、変化してきたために、さまざまな名字を生み出すことが可能になったのでしょう。


3.名字の由来
 日本人の名字は種類が豊富ですが、一方で非常に偏りがあるのです。そこで次の問題に挑戦してみましょう。

問題3 日本人の名字で最も多いランキング上位10位は何でしょうか。

クラスの友達でよくある名字を参考に答えてください。このクラスにも、これらに当たる名字の人がいますね。次の【資料1】有名な名字のルーツで確認しましょう。

【資料1】有名な名字のルーツ
 位 苗字 人 口
 1 佐藤 約1,928,000 藤原秀郷の後裔、左衛門尉公清が佐藤を称するに始まる。
 2 鈴木 約1,707,000 物部氏族穂積氏の後裔、紀伊国熊野の豪族で熊野神社勧請で広まる。
 3 高橋 約1,416,000 物部氏族の高橋連、伊勢神宮祠官、弥彦大宮司など全国的に諸流多し。
 4 田中 約1,336,000 蘇我氏族の田中臣、清和源氏、桓武平氏、藤原氏、橘氏などの諸流多し。
 5 渡辺 約1,135,000 嵯峨源氏、源融四世の孫、渡辺綱の後裔。摂津国西成郡渡辺発祥。
 6 伊藤 約1,080,000 藤原秀郷の後裔、佐藤公清の曾孫基景が伊勢に住み称したのに始まる。
 7 山本 約1,077,000 賀茂社神職家、清和源氏、桓武平氏、藤原氏、日下部氏など諸流多し。
 8 中村 約1,058,000 中村連、清和源氏、宇多源氏、桓武平氏、藤原氏など諸流多し。
 9 小林 約1,019,000 大神姓、清和源氏、桓武平氏、藤原氏秀郷流など、神官系が多い。
 10 斎藤 約980,000 藤原利仁の子、斎宮頭叙用が斎藤を称するに始まる。
 11 加藤 約860,000 加賀の藤原氏。藤原利仁の六世正重に始まり、全国に分布。
 12 吉田 約835,000 吉田連、卜部姓公家、吉田社社家、清和源氏、桓武平氏、藤原氏など諸流多し。
 13 山田 約816,000 山田臣、山田連、山田県主、平城天皇の山田皇子裔、源氏、平氏、藤原氏など。
 14 佐々木 約716,000 近江国蒲生郡佐々木より起こる宇多源氏。
 15 山口 約641,000 山口臣、清和源氏、桓武平氏、多々良氏、日下部氏、小野姓横山党など。
 16 松本 約634,000 伏見稲荷神職家、石清水祠官、清和源氏、宇多源氏、桓武平氏など諸流多し。
 17 井上 約610,000 清和源氏頼季流(信濃国高井郡井上)、安倍氏(三河)などが有名。
 18 木村 約584,000 藤原氏秀郷流(下野)、紀氏(近江)、物部氏(摂津)、穂積氏(紀伊)など。
 19 林 約541,000 林連、林臣、林宿禰、大伴氏、越智氏、清和源氏、桓武平氏、藤原氏など。
 20 清水 約524,000 丹党、清原氏、清和源氏、藤原氏秀郷流など諸流多し。


 ランキング順位は、統計の出し方によって変わってくるかもしれません。この表はインターネットで公開している「苗字7000傑」というHPに基づくもので、自分の名字が第何位かを検索できるサイトです。
 これら有名な名字から、いくつか名字のルーツに関するポイントを紹介しましょう。
①上位の十大姓が全人口の10%にあたる。名字は多様だが、ばらつきが均等でない。
②渡辺・佐々木・井上の場合…名字の由来は地名が多い(名字の90%が地名といわれる)。
③佐藤・伊藤・斎藤・加藤の場合…藤原氏の系統が多い。たとえば、佐渡の藤原氏で佐藤、伊勢の藤原氏で伊藤、斎宮頭の藤原氏で斎藤、加賀の藤原氏で加藤というなど。
④田中・山本・小林などの場合…諸流あって源平藤橘につながる。名字の由来は多くの場合源氏か平氏か藤原氏か橘氏につながると言われている。


4.庶民の名字(名字の普及)
 皆さんのなかには、自分の名字が源平藤橘など名門だということが明らかになった人もいるようですが、早まらないでください。それがあなたに血縁のあるご先祖様かどうかはわかりませんよ。
 私を含めてここにいる人はみんな庶民の出身でしょう(なかには由緒がわかっている人はいるかもしれないが)。遡ればだいたい百姓だったケースが少なくないはずです。そこでこんな話を聞いたことはありませんか。「江戸時代に名字があったのは武士のみ。苗字帯刀といって特権だった。だから百姓は一部を除いて□□村のゴンベイさんみたいに呼んでいて、ほとんど人が明治時代になって適当に名字をつけた」という話です。それでは、次の問題について考えてみて下さい。

問題4 江戸時代で苗字・帯刀は武士の特権。では農民で苗字をもっていた人の割合は?
(イ)3% (ロ)10% (ハ)40% (ニ)70% (ホ)90%


 3%あるいは10%と考える人が圧倒的のようですが、実は正解は(ニ)。近年の研究によると70%くらいの百姓が名字をもっていたことが明らかにされています。江戸幕府の統制によって、公の場では自分の名字を名乗れなかったが、私的な場ではみな名字を代々継承してきたというのです。たとえば、ある村の五人組帳(公の文書)には、名字を記さず名前だけなのに、同じ村のお寺の寄進帳(私的な文書)には、その名前にみんな名字が記載されていたという調査研究があるのです。
 そうであるならば、庶民の多くが江戸時代には名字をもっていたとすると、どれくらいまで遡ることが出来るのでしょうか。

問題5 およそ一般庶民の名字は、何時代まで遡ることができるでしょう
 (イ)平安時代 (ロ)鎌倉時代 (ハ)室町時代 (ニ)江戸時代


 正解は(ハ)室町時代です。およそ南北朝ぐらいまで遡るとも言われています。鎌倉時代後半に、武士の一族をまとめていた惣領制がしだいに崩れていったことは憶えているかな。武士にとって血縁的な結びつきよりも、地縁的な結合が重要になってきた。とくに南北朝の動乱期になると、一族の所領争いとあいまって、領主(武士)と領民(農民)の結束が不可欠になってきた。そこで領主は自分と同じ名字を領内の者に与えて、共同体(領内)の同族意識を高めるようにした。同じ領内の者はみな同じ名字という現象が起こってくるというわけです。

【資料2】名字の歴史
平安時代
武士の間で生まれた通称が「名字」。同姓のものを区別するために「字」(あざな)を通称として用いるようになり、とくに地名を名字する武士が多かった。「名字地」すなわち自分の支配する名と呼ばれる領地の地名を名のるということ。

鎌倉時代
しだいに名字は、先祖代々の本領、すなわち「名字の地」をまもることと併せて重んじられ、鎌倉幕府の成立にともない、将軍に奉公する御家人に対する領地の安堵(御恩)に利用され一般に普及。すなわちこの頃までに発生した名字は地名とのかかわりが深く結びついている。

南北朝・室町時代
地域の武士(領主)が所領内の家臣や有力農民、やがては庶民にまで、自分の名字を与えるようになった。この頃から武士の血縁的な結びつきは弱まり、かわって地縁的な結合が重要になる。そこで領主は自分と同じ名字を領内の者に与えることによって、血縁関係のない領内の有力者に同族意識をもたせようと考えた。領主から領民までが、みな同じ姓をなのるという現象がおこる。

戦国時代
下剋上の時代だから、実力のある者が大名にのし上がることが多かった。そのような出来星大名は由緒ある筋目の人ではないので、伝統的な権威のある名字を名のるという場合があった。当時の価値観では、武家の指導者としてのし上がった者には、それにふさわしい名字が必要であると考えられていた。また、戦国時代は、武士と農民の別が固まっていないので、庶民にも出世の糸口を手にするために、さまざまな名字をなのる者が現れた。

安土桃山・江戸初期の時代
大名の領国支配が確立するとともに、大名が家臣に名字を授与する、名字を名乗らせる現象がおこる。大名の家臣統制の一手段であったと考えられる。また、天下統一を成し遂げた秀吉・家康が、大名に対して自分の旧姓である羽柴・松平を授与するという場合も見られる。名字を与えられた大名は、日本の統治者の親族に準じる者として扱われるようになり、これが安定した国内秩序の形成につながった。

江戸時代
幕府は安定した秩序を維持するために、いわゆる士農工商という身分制度をつくり、武士のみ(全人口の1割程度)に苗字帯刀を許した。以来、幕府は農民・町人などに対して特別の許可がない限り名字を公称させない方針をとった。

明治時代
明治維新後、四民平等の社会になり、明治5年の戸籍制度によって、それまで名字を公にできなかった者や名字をもっていなかった者が、正式に名字をもち、新たに「明治新姓」が誕生する。さらに明治8年、太政官によって名字必称令がだされ、これまで名字を必要としなかった地域の人も含めてすべての人が名字をもつようになる。
 

上の資料をみて下さい。南北朝・室町時代から明治時代にかけて、日本人がみな名字をもつまでの流れを確認しました。名字が普及した歴史をみると、日本人は名字を重視しつつも、血縁的なつながりの純粋性をもとめていなかったようです。むしろ、その時代における歴史的な事情に影響されて多様に名字は変化してきたと推測できそうです。しかし、これは名字の歴史的価値を少しもおとしめることにはならない。むしろ、日本的な特色と評価することができるのではないでしょうか。

 また名字のなかには、貴少性と呼ばれるものがあります。戦国時代や明治時代などに何らかの歴史的事情で他に普及することなく、少数の家だけで受け継がれてきた珍しい名字です。なかには、非常にユニークなものがあるので紹介しましょう。

【資料3】珍姓・貴少姓
   ①無敵  ②南蛇井  ③要海  ④金持
  

 まず①「むてき」さん。おそらく、戦いで無敵の活躍をしたために殿様から与えられたものだろうと推測されています。名字を尋ねられたときに困るのは②「なんじゃい」さん。ケンカになりそうです。③「ようかい」さんも冗談だと思われそうですね。④は「かもち」と読むそうです。


5.名字から学ぶこと(まとめ)
 いろいろと名字の歴史について紹介しきましたが、まとめとして授業の最初に皆さんに発した問い、「わたしたちの名字はどのような意味があるのか」について考えてみましょう(次の資料を読み上げ、下線部を強調して説明する)。

【資料4】〈名字の由来〉から学ぶこと
自分の名字の由来を調べてみて、それが源氏や平氏であったり、あるいは歴史上有名な人物であることが分かっても、それをただちに血縁のある先祖ということはできない。しかし、それで少しもがっかりすることはないし、またウソじゃないかと批判的になることも間違っている。大切なのは、その名字には、そう名のるべき由来、そうなるべき歴史的な事情があったということ。そして、代々ずっと受けつがれてきた名字を、今、あなたが受けついでいるということ。これは紛れもない事実なのだ。
 名字について考えたことで、わたしたちは歴史と決して無関係ではないことがわかっただろう。あなたの名前と名字。あなたの名前は、両親や祖父母があなたの誕生を喜び、あなたを思ってつけたもので、歴史や社会に吸収されないあなた自身の個性をしめすものである。そして、あなたの名字は、歴史の中で受けつがれてきたあなたの存在を示すもの、あなたが歴史的存在であることを表すものなのだ。


 「名字=歴史的存在」ということですね。私たち一人一人はみな、現代を突然生きているのではないのです。多くの先人が代々受け継いできたものがあって、いま私たちがいる。そしてそれは未来の子孫へ受け継がれていくでしょう。名字はまさに歴史的な存在としてのわたしたちを表するものではないでしょうか。

問題6 今日の授業を学んで、感想を書いて下さい。


☆生徒のおもな感想
○自分と一番身近なものが歴史とつながっていることに驚きました。ランキングをみて自分の名字は、いったい何位なのか知りたくなりました。日本に約29万ある名字は本当に日本の伝統文化なのだなと実感しました。これからも自分自身の名前という5文字に含められた思いを大切にしていけたらいいなと思いました。

○名字についてこんなに考えたことはなかったので面白かったです。私たちの遠い先祖の方々が地名や信仰の対象などによって作った名字はすごく大切なものだったろうし、現代を暮らす人たちよりもきっと大事に使っていたのではないかと思いました。自分の名字はどういう意味からできているのかわかりませんが、駅の名前にもあるので、やはり土地に関係しているのかなと思いました。

○平民は明治時代なってから勝手に好きな名字をつけていたと思っていたので、70%も江戸時代の時点でつけていたとは知らなかった。名字一つとっても歴史って面白いと思った。ほとんどの名字は源平藤橘にさかのぼるなんて意外だった。

○自分の名字は多くて使いづらいという印象しかなかったけれど、歴史とともにつくられてきた意味をもっているものだということに今回気づかされました。実際、祖父は僕ら家族の名字は、源氏の末裔だと言っていたけれど、僕の名字がどんな過去とつながっているのかと思うと、とてもそれをすごいものに感じることが出来た。

○テーマが名前という身近なものだったので、凄く興味がわきました。自分の名前もそうだけど、日本全国にどんな名字の人がいるのかとても気になりました。「南蛇井」(なんじゃい)さんにはびっくりです。他にもいろんな名字の歴史などを調べたら面白そうだなと思いました。楽しかったです。


☆参考文献
①武光誠『名字と日本人—先祖からのメッセージ』文春新書(H10) 
②豊田武『苗字の歴史』中公新書(S46) 
③丹羽基二『知ってなるほど苗字の謎』小学館(H10) 
④森岡 浩『知っていそうで知らない日本人の名字事典』日本実業出版社(H10) 
⑤鈴木 亨『名字から歴史を読む方法』河出書房夢新書(H12) 
⑥奥富敬之『名字の歴史学』角川選書(H16)

高等学校 歴史と文化の授業
           
☆はじめに
 今日は、私たちが日常あたり前につかっている文字について考えていきます。日本の先人たちが古代に漢字を輸入してから、どのように「かな」文字を発達させていったのでしょうか。その過程を具体的に見ることで、私たちの先人たちが如何に文字を工夫してきたかを学び、外来文化に対する日本人の意識を探って行きたいと思います。


☆授業の展開
1.日本の文字について考えてみよう

 雑誌をひらくと、あらためていろんなタイプの文字が使われていることに気づきませんか。漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットもあれば、アラビア文字(数字)さらにフリガナの小さい文字。実に、にぎやかな文章であふれています。普段ほとんど意識することはないが、わたしたちは一つの文章の中でさまざまな種類の文字を使っている。そのため日本人の文字はとても複雑だと言われているのです。

問1「せんこう」と読む漢字を、思いつく限り書いてください。

 いくつ書けたでしょうか。「線香・先攻・専攻」など、さまざまな意味の熟語がありますよね。ほかにも「戦功・選考・先行・閃光・潜行・先公(笑)」と。アクセントの違いはあるけれど、同じ発音の言葉なのに、文字は何種類もあります。私たちは自然に、文脈や会話の中からその漢字を当てはめて理解しているのです。

問2 「十一月三日はちょうど祝日で日曜日です」日の字をそれぞれどう読みますか。

 皆さんは当たり前のように読めますね。みっ「か」、しゅく「じつ」、「に」ちよう「び」。短い一文の中に4回も同じ文字が出てきて、すべて読み方が違います。あらためて考えてみると、私たちは、ほとんど一瞬に判断して読み分けている。かなりすごいと思いませんか。
 このような言語と文字の例は、世界でもきわめて珍しい。そのため、日本人の文字は、風変わりで複雑なものと言われています。どうしてこのように複雑になったのでしょうか。日本人は、文字とどう向き合い、どのようにつきあってきたのか。具体的に探ってみましょう。


2.漢字が入ってきた 
 まず日本人が最初に出会った文字は、漢字でした。我々の先人が漢字を文字として使用するようになるのは、諸説ありますが遅くとも4〜5世紀のこと、古墳時代にはみとめられます。

問3 漢字には、法律・宗教をはじめ中国文明の学ぶべき情報がたくさん詰まっていた。漢字を学んだ日本人は、しだいにその文字を自分たちの社会に役立てようと考えるようになりました。そこで、当時の日本人はどうしたでしょうか。
 ⓐ漢字を正しく使いこなすために、当時の日本語(やまと言葉)をやめて、漢語(中国の言葉)を
  読み書き話す術を身につけようと努めた。
 ⓑ自分たちの言葉(やまと言葉)を文字で表そうと、漢字の音(発音)を利用して当時の日本語
 (やまと言葉)を書き表した。
 ⓒ漢語(中国の言葉)を話すことはできなくても、文字の意味がわかれば文化は吸収できるので、
  漢字を強引に日本語で読んだ。


 簡単に言うと、ⓐは自分たちのしゃべっていた言葉を捨てて中国語を話すようにしたということ。ⓑは厳密言うと違うのだけど、よく暴走族がやる落書きで「ヨロシク」を「夜露四苦」みたいに書いた。ⓒは現代の私たちのイメージに近づけるために英語に置きかえて言うと、たとえば「DOG」という文字を強引に「いぬ」と読ませたということです。
 皆さんは、どれが正解だと思いますか。ⓑⓒの2つが正解です。まずⓑの場合から具体的な事例を見ていきましょう。

【資料1】
 ①獲加多支鹵
 ②巷宜有明子  
 ③有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等 


 資料1の①〜③はいずれも人名です。①は稲荷山古墳出土の鉄剣銘に刻まれた文字で「ワカタケル」と読みます。雄略天皇のことです。5世紀の「倭の五王」で学習しましたよ。②と③は読みづらそうですが…。7世紀はじめ、推古天皇のころの超有名人です。正解は②が「蘇我馬子」(ソガノウマコ)、③が「聖徳太子」です。聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのみこ)でしたね。③をしっかり読むと「うまやととよとみみのみこと」となります。

 それでは次にⓒの例を紹介します。次の資料は有名な文章ですが、読める人はいますか。『日本書紀』に記録された「十七条憲法」の一節です。

【資料2】 
 以和為貴、無忤為宗。
(やわらかなる(わ)をもって、とうとしとなし、さかうることなきをむねとせよ。)


 聖徳太子の憲法十七条の第一条でしたね。この文章は、漢字ばかり並んでいるので一見漢文風だけど、実はやまと言葉でないと読めない文章なんです。漢字を強引に日本語で読んだ例です。たとえば「和」という字は本来「わ」としか読みようがないのに、「やわらか」という日本語の訳で読ませることにしたということです。
 以上の2つの資料から確認できたことをまとめましょう。ⓑの表記を音仮名と言います。ⓒは訓書きという方法です。漢字による日本語の表記は、音仮名という中国文字の音をつかったものと、訓書きと言って日本語の訓訳をあてるものと2種類あるのです。中国の文字を学んでも日本の言葉を捨てずに両方を使い分けたということです。
 ここまでいえば、漢字には音読み・訓読みがあることに思い当たるでしょう。音読みは中国語的な発音の読みで、訓読みは日本語で訳した読み方なのです。
 
 とりわけ、訓読み・訓書き方式の発明は画期的だったと言われています。と言っても、みんなは小学生の時から訓読み・音読みを体得させられているから、驚くに値しないかもしれないけれど…。
 例えば「山」を「やま」とよむのは当たり前と思うでしょう。しかし、これは相当奇抜な発想なのですよ。現代の私たちの感覚に近づけて言うと、mountainという英語がありますね。これはマウンテンとよんで「山」のことだと習いますが、英語のmountainを直接「やま」とよむのだ、dogを「いぬ」、catを「ねこ」と読むのだと言われたら、相当戸惑うでしょう。私たちの先人たちは、見ようによってはかなり大胆なことをやってのけた。すなわち訓読み・訓書きは、漢語(中国語)としてよむ以外にないものを、自分たちの言葉でよむことし、内容豊かな古代中国の古典などの学習を可能にしたというのです。

 ちなみにⓐの場合をとっていたらどうなっていたでしょうか。たしかに当時の日本人は漢語をかなり懸命に勉強したでしょうが、決してやまと言葉(日本語)を捨てようとはしませんでした。もし自分たちの言葉を捨てていたなら、中国文明の影響によって、日本独自の文化形成は阻まれていたかもしれません。たとえば、フランスの植民地だったアフリカの地域では、国の指導者はフランス語を話し、一般の民衆は現地語で会話するので、その国の文化の独自性が阻まれているという例があるのです。


3.万葉仮名という方法
 漢字を学んだ日本人は、しだいに自分たちの言葉に近づけて文字を表そうと模索します。純粋な日本語を写そうとしたり、声に出して読めるようにするには、語順や助詞などを含め、表記を日本語に適した形にもっていかざるをえない。しかし、そもそも中国語には助詞がなく活用もない、さらに語順も違います。そこで、当時よく使われていたのが万葉仮名です。漢字仮名交じり文ともいい、万葉集で使われていた日本語の表記方法なのです。

問題4 次の文字は暗号のようにみえるが、実は『万葉集』巻第三・318 山部赤人の和歌(日本古典文学大系『萬葉集一』)。訓として読む漢字(訓書き)と音として読む漢字(音仮名)とを区別して解読してみよう。

 田児 打出 眞白 
 不盡高嶺  雪家留

                          
 読めますか。下線部を助詞・活用語尾と判断すると分かりやすいと思います。正解は「田児の浦 打出で(て)見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」となります。意味は、「田子の浦(現在は静岡県富士郡)を通って(眺望のよいところに)でてみると、真っ白に富士山の高嶺に雪が積もっていることだ。」雪化粧をした富士山とは、実に日本的な風景ですね。

 よく間違えてしまうところは、「白衣」を「はくい」「びゃくえ」とよんでしまうことです。やはり「しろいころも」と思ってしまいますよね。でも答えは「真白に」。「衣」の字を助詞として音仮名で読んでいいのか、「ころも」と訓で読んでいいのか、わかりづらいのです。全部漢字で書かれているので、その区別が難しい。和歌のように五七五七七と定められていればそれに合わせて読めばよいが、散文では訓としての漢字と、音として読む漢字としての漢字の区別がよけいに困難になるのです。そこで、ひらがな・カタカナが登場してくることになります。


4.ひらがな・カタカナの発明
 日本の文字は、平安時代中期、いわゆる摂関政治の時代に大きな転換期を迎えることになります。すでに9世紀ころから唐の衰退により、その文化の影響力は低下していて、漢字をもとに略したり、部首をとってみたり、独自の「かな」が用いられるようになります。たとえば[ひらがな…安=あ 以=い ][カタカナ…阿=ア 伊=イ]となります。

問題5 当時の日本人が発明したひらかな・カタカナをどのように生み出されたのでしょうか。
 ⓐ唐に対抗して、日本独自の文化をつくろうという国風文化の風潮のなかで、天皇や摂関家など朝
  廷が中心となり、国家事業として「かな」を制定し日本の文字として推奨した。
 ⓑ貴族社会のなかで、日常の細々とした記録や消息、本の書きこみなどから字形の簡略化がすすみ、
  自然発生的に「かな」は生まれてしだいに普及していった。


 平安朝廷が国家事業として「かな」を制定したのか、それとも自然発生的にうまれたものなのか、どちらでしょうか。正解はⓑです。中国の文明の象徴である漢字の威厳にとらわれず、日本では実用性から労力経済が働き、しだいに文字を簡略化する方向にいったと考えられます。

 日本の「かな」は実用性から出発したために、しだいに庶民にも広まります。ところで中国では、文字は支配階級(士大夫)の特権だったらしい。文字は生活に余裕のある者だけが学べるものであり、一般大衆を寄せつけなかった。だから漢字には威厳があり、そのためには必要以上に難しくないといけないという風潮があったようです。その点、情報伝達の手段という実用性からうまれ、やがて広く庶民にも普及した、日本人の文字は中国の場合と対照的ですね。


5.まとめ 日本人の文字
1.「かな」の発明が日本の文化を生んだ
日本人にとって、「かな」が生まれたことはどのような意味があったのでしょう。

資料3】 紀貫之「ひらがなの序文」
「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。よのなかにある人ことわざしげきものなれば、心におもふを見るものきくものにつけていひいだせるなり」
(意訳)「和歌というものは、人の心の中にある感情を核として生まれた言葉によってできている。世の中に生きている人間にはいろんな事が起きて忙しいけれども、その忙しさが人間に働きかけて、いろんな感情を生む。その感情があるからこそ、人間は何かを見たり聞いたりするにつけて、自分の感情を形にした歌を詠むのである。」


 これは和歌について語る文章ですが、人間の感情の発生を語る文章でもあります。そして日本人にとってその心を最もよく表現する道具は、外国語である漢字や漢詩ではなくて、日本製のひらがなであったことを示すものです。
 自分たちの考えや気持ちを自分たちの言葉と自分たちの文字で、何の束縛もなく自由自在に記しうること、そして日本的な感性を育んだこと、この重要性はいくら強調してもしすぎるということはないでしょう。
 さらに言えば、『古事記』『万葉集』から『竹取物語』や『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』、さらに歌集・日記類から随筆『徒然草』に至る膨大な「かな古典文学」とも言えるものが創造されるようになりました。これがなかったら、現代の日本文化はなかったと言えるでしょう。日本人は「かな」をつくり、「かな」が日本の文化をつくったということなのです。

2.漢字を捨てなかった日本人 その理由 
「かな」ができたからと言って日本人は漢字を捨てたわけではありません。むしろ積極的に漢字の良さを自分たちの文化のなかに取り入れようとしました。具体例を紹介しましょう。

【資料4】
①鰯・鰹など魚片の漢字
②政界・政局・政断など「政」に関わる語句
③「はかる」という日本語
  =「計・図・測・謀・量」の使い分け
④谷川俊太郎
 「このこのこのこ どこのここのこ
  このこのこののこたけのこきれぬ」


 ①は日本人が元来の漢字にはない日本製漢字を生み出した例。②は漢字を組み合わせて、日本人はあらたな造語をつくった例。③は漢字を使い分けることによって、一つの意味であった和語(日本語)が精密化された例。⑤漢字によって文字列が読みやすく、かなだけでは理解しづらい例。

【資料5】中国の外来語辞典に載る和製漢語
 背景 理想 版画 不動産 領土 理性


 これらの語句は、中国の外来語辞典に日本の語として掲載されたものです。驚いたことに、日本人がつくった語句を、現在、中国人たちが使用している例なのです。いわば、ちょうど漢字の「逆輸入」ともいうべき現象がおこっている。それだけ日本人は漢字を自分たちのものに消化したことを示しているのではないでしょうか。

3.日本人の外来文化に対する意識
 最後に、山本七平氏の一文を読んで終わりたいと思います。

【資料6】山本七平「日本人とは何か。」
日本人は、かなによる自国の世界を生きつつ、同時に漢字という当時の東アジアの「世界文字」につながって生きていたということ。すなわち日本の独自性と世界の普遍性を併せもつことで日本の文化が形成された。その姿勢は多様性を認めるということ。漢字を捨てず平仮名・片仮名など文字や文章に統制を加えず、自然のままにしておく。日本人は、文字をはじめ文化に対して多様性を尊重する民族と言えよう。今日私たちの周りにある衣食住をみても思い当たる節があろう。


問題6 今日の授業を学んで、思ったこと・考えたこと等をまとめて、感想を書きましょう。


[参考文献]
①山本七平「文字の創造」『日本人とは何か。』PHP文庫 1989 
②樺島忠夫「漢字からローマ字まで」『日本語の歴史』大修館書店 1977 
③樺島忠夫『日本の文字』岩波新書 1979 
④小松茂美『かな その成立と変遷』岩波新書 1968 
⑤西尾幹二「日本語確立への苦闘」『国民の歴史』 1999 
⑥高島俊男『漢字と日本人』文春新書 2001 
⑦大野晋『日本語はいかにして成立したか』中公文庫 2002

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