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飯島利一

Author:飯島利一
授業づくりJAPAN(日本の誇りと歴史を伝える授業づくりの会)は独立国日本の再建を志す教師の会です。誇りある日本人を育てる授業を実践し、全国の同志と支え合います。国を思い先人に感謝し卑怯をにくむ日本人、日本人の自由と真実を守るために戦うことのできる日本人を育てます。

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高等学校『日本史B』の「戦国大名」を教えるための新しい視点として

☆はじめに
平成19年度のNHK大河ドラマ「風林火山」を見ていて、面白い発見があった。たしかその年の7月はじめ頃の放送である。ちょうど全国大会の直前であり、私は模擬授業で「武士の公共的精神」を扱う予定だった。そのため、戦国武将がもつ公共的な性格についても、あれこれと関心をもっていた。

ドラマは、武田晴信(信玄)が分国法「甲州法度之次第」を制定する場面を映し出していた。晴信は、法度を起草した駒井高白斎に相対し、それに目を通している。やおら、駒井は、目の前の晴信に、法度にもう一条を書き加えて欲しい旨を言上した。訝しげな表情の晴信に対し、駒井は、条文の最後に「家臣や領民のみならず、領主・晴信自身もこの法度を遵守する」と約定して頂きたいと申し出たのである。晴信は駒井の提案を承けて、大きく頷き、最後の条文を自ら書き加えた。

分国法といえば、戦国大名が領国を支配・統制するために作ったというのが、教科書的な説明である。法に拘束されるのはあくまで家臣・領民であり、大名は法から自由であったとされている。だが、ドラマで晴信が法度に書き入れた条文の存在そのものは、フィクションではない。後述するように天文十六年(1549)制定の法度二十六カ条のうち、最後の条文に実在している。

大河ドラマのワンシーンとはいえ、従来の教科書的な戦国大名像とはちがった興味深い一面を見つけることができた。これこそ戦国大名が公共的な性格を持っている好例といえるのではないだろうか。以下、具体的に検討していきたい。

 
1.教科書が語る戦国大名のイメージ
最も多くの高校生が利用している教科書は、山川出版の『詳説日本史B』である。まずは、そこで戦国大名がどのように説明されているのかを確認しよう。

戦国大名は、①「地域に根を下ろした実力ある支配者」②「みずからの力で領国をつくりあげ独自の支配を行う地方権力」③「新しい軍事指導者・領国支配者としての実力が求められる」とある。また戦国大名の領国支配については、①家臣団統制のために貫高制・寄親寄子制の軍事制度をもうけた。②領国支配の基本法として分国法を制定した。③指出検地を実施し、新たな征服地では農民に対する直接支配を強化した。④城下町を建設し、商工業者を統制した。

いずれも「権力・支配・統制・征服」の語句が多く使われており、この記述からは、戦国大名が自らの強大な権力で、領国内の家臣・領民を支配・統制し一方的に抑圧している、とイメージせざるを得ない。

結局のところ、問題は、戦国時代の社会的しくみが、支配者・被支配者の上下構造でとらえられていることであろう。すなわち、支配する側の戦国大名は、支配される側の領民を上から抑えつける。やがて支配される側は追いつめられ、支配する側に反発・対抗し、革命的な行動におよぶ。両者がつねに対立しあう、いわゆる階級闘争史観的な見方に陥っているのである。


2.「武士の公共的精神」の由来
平成19年度の自由主義史観研究会の全国大会で尾藤正英氏は、「武士の性格と日本歴史の特色」と題し、幕末期の志士たちがもつ武士の公共的精神について講演した。氏によれば、その精神の由来は、14世紀頃からの大きな社会変動期にさかのぼるという(その論旨は「戦国大名と幕藩体制」『江戸時代とはなにか』に詳述)。

14世紀半ばの南北朝動乱から戦国時代までの間は、いわゆる中世的な秩序が崩れ、庶民層にまで社会的変動がおこった時代である。各地域社会には、自分たちの利益を守るために、国人や地侍(武士化した上層農民)などが中心となって、「惣」とか「一揆」などと称する自治的・自律的な共同体組織を形成した。

「惣」をつくる村民らは平等意識をもち、村の運営は「寄合」という村民の合議で決定され、運営される。「惣」は、村の規約、警察権の行使、納税のとりまとめなどを通じて結束し、連帯意識の強い組織に成長していった。彼らは、各地で幕府や守護大名の支配に対抗し、土一揆をおこし、下剋上して守護を国外追放する場合すらあった。

しかし、そうした共同体組織は、戦国大名の出現とともに、しだいにその家臣となり、やがては武士団に編制され、大名の連合体としての幕藩制国家に至る。つまり、いわゆる中世的な旧体制(幕府や守護大名)に対して反発した「惣」や「一揆」は、戦国大名という新しいタイプの大名のもとに吸収されてしまったのである。

この間の推移について、教科書的理解では、戦国大名が強力な支配体制をしいたために、「惣」や「一揆」がそれに屈服し、統制されたとするのだが、尾藤氏はこれを逆にとらえた。そもそも、「惣」や「一揆」は、共同体全体の意見や利益を重視する自治的・自律的な性質が強いものである。そのため、これを弾圧するような旧体制には決して従わない。それにもかかわらず、彼らが戦国大名に従っていった理由は、その自律的・平等的な性質を認める新しい体制を、戦国大名がつくったからなのである。

このように理解すると、戦国大名が強大な権力で一方的に支配したイメージは一変せざるを得ない。戦国期の大名とは、領国の諸集団の自立性を認めつつ、領内全体の意見や利益を調整する、いわば公共性を体現する存在だと解釈するほうが合理的なのである。
 
3.武田晴信のもつ大名としての公共性 
典型的な戦国大名ともいえる武田晴信の事例を検討するに際し、まず注目すべきは、武田家の分国法「甲州法度之次第」である。さきにふれたように、教科書では、家臣・領民の自由・自主的な行動を厳しく制限し、統制するためのものと説明しているが、それは妥当なのか否か具体的に見ていこう。

①「喧嘩のこと、是非に及ばず、成敗を加ふべし」。
有名な「喧嘩両成敗法」である。この法は、大名が領内の裁判権を独占・集中するための規定といわれる。しかし、尾藤説によれば、もともと、この規定は「一揆」における慣習法だったという。たとえば、「一揆」の内部で喧嘩(私闘)がおこった場合、その社会では双方が対等の立場であるため、どちらが是か非かを判断する主体が存在しない。ゆえに判断を避けて、双方、両成敗とするしかなかった。

一般に説かれるように、戦国大名が、その領国の裁判権を独占・集中するならば、是非を判断する権限を掌握しなければならないはずである。しかし、そうしないのは、大名が主体的な判断を下さず(下し得ず)、領国内に根づいていた社会的慣行に従っていることを意味しよう。

②「晴信の形儀その外の法度以下において、意趣相違のことあらば、貴賤を選ばず目安をもって申すべし。時宜によりその覚悟をなすべし」。
これが冒頭のドラマのシーンで、晴信が書き加えた最後の条文である。晴信自身が法を犯した場合もその責を負う、という覚悟が表れている。戦国大名の晴信もこの法に拘束されたことが確認できるのだ。

①②の規定が示すように、武田晴信は領国内の慣習法、さらには自ら制定した法度から自由ではない。決して家臣・領民ばかりを統制したのでなく、法度という客観的な基準をもとに、領国全体の経営にあたっていた。大名といえども、社会的慣習などの規制のため、恣意的な領国経営はできなかったことがうかがえる。領国という新しい「共同体」の代表者=大名は公共的な性格をもち得なければ務まらなかったとみるべきであろう。

以上のごとく分国法を解釈するならば、武田晴信によるその他の諸政策も、同じ視点から理解できるのではないだろうか。

信玄堤は、氾濫する河川に堤防を築く治水事業として有名である。この事業の目的は、大名が年貢収入を確保するためという点が強調されている。大名が、重税に苦しむ領民を顧みず、税収にのみ腐心していたかのような図式だ。もちろん、領国経営のための財源確保が狙いでなかったとは言わないが、むしろ、農民の生活安定をめざした公共事業と理解する方が自然である。この治水は武田家の直轄領のみならず、晴信の直接の年貢収入にならない国人・地侍の村落を含め、領国全体に及んでいる。やはり領国経営の責任者として、全体の利益・福祉を実現していると解釈できよう。詳細な検討は稿を改めるが、このほか領内の寺社の祭祀、交通権の掌握、枡・秤の度量衡の統一、金山の開発など、公共性をそなえた政策として評価できるものが多い。

武田晴信を戦国大名の一典型と見たとき、従来の教科書的解釈は大きく変わってこざるを得ない。戦国大名は、領国を統一する諸政策を通じて、国人層・地侍層、地下衆などの諸集団を調整し、領国全体の意思や利益をまとめる役を担っていた。こうした視点で戦国大名の施策を見直せば、彼らが公共性の体現者として存在していたことが明白はある。


4.下剋上の解釈
戦国時代の社会を授業する場合、重要なキーワードは下剋上である。この理解なしに土一揆はもちろん、戦国大名の群雄割拠や、織田信長にはじまる天下統一事業も説明はできない。

教科書では、国人一揆や、北条早雲・斎藤道三などを例にあげ、下の者の力が上の者の勢力をしのいでいく現象であると記述する。これに限らず、巷間知られる下剋上とは、自らの野心や野望のために権謀術数をめぐらし、実力ある者がのしあがっていくというイメージである。戦国時代という乱世だからこそ可能な、非道で無法的な行為と印象づけられている。

しかし、戦国大名が領内の諸集団を束ね、公共的な政策を実現する存在であったとすれば、下剋上という社会現象に、また別の解釈が成り立つのではないだろうか。武田晴信の場合は、天文十年(1541)、甲斐の守護職である父、信虎を追放して家督を相続した。言わば親子間での下剋上である。そのときの様子はいくつかの史料に残されており、内容はおよそ共通している。

『勝山記』によれば、「武田大夫様、父信虎を駿河国へ押し越し御申し候、……地家・侍・出家・男女共に喜び満足致し候こと限りなし」という。百姓や地侍などの領民が、信虎の追放に満足して喜んでいるという記録である。よく知られていることだが、信虎追放は家臣・国人層が中心となって画策し、晴信は彼らに担ぎ出された御輿的・シンボル的な存在だったというのが通説である。

すなわち、武田信虎の恣意的な、つまり公共性に欠ける支配に対して、家臣や国人層は自領の自立性や領国内全体の利益を保持しようと、当主の代がわりを望んで下剋上したのである。このように下剋上の事例の多くは、その領主を戴いていると領国全体に不利益が生じるとか、あるいは領主が領国全体の意思に反したときに起こるのではないだろうか。

一方、教科書は、『大乗院寺社雑事記』をはじめ土一揆や国人一揆に関する史料をいくつかあげている。そこでは、下剋上は言語道断であると憤慨し、あるいは世も末であると嘆いている様子が看取される。しかしこれらの史料は皆、寺社の記録や公家の日記など旧体制の側から見たものばかりである。確かに下剋上は、旧体制の側から見れば、非道で無法な行為に他ならない。しかし新たな体制、公共性をもった領国経営を望む側から見れば、理のある正当な行動であった。

公共性の実現者として戦国大名をとらえると、下剋上は非合法ではあるが、領国の公共性を保持するための行為と考えることも可能であろう。江戸時代の藩経営でいえば、主君押込のような機能である。現代的にやや極言すれば、首長の「リコール」のような性格ではないか。戦国大名は領国内の諸集団を家臣化したと言っても、中世の家人や所従ごときには扱うことはできなかった。かれらの自立性を認めつつ、領国を統一する新しい社会秩序をつくりあげねばならなかった。新体制に脱皮できなかった者は、下剋上の憂き目にあうからである。


5.むすび
戦国時代から大名は、中世的な価値意識から脱却して、「惣」という自治的な村落をはじめとする諸集団をまとめ調整する役を負った。公的精神を重んじる武士のエートスはこのような社会変動の中から生まれたと考えられる。こののち、兵農分離を経て江戸時代にはより洗練された武士道の確立にいたるのであろうが、一旦、擱筆したい。



☆おもな参考文献
①尾藤正英『江戸時代とはなにか』 岩波現代文庫 平成12年
②笹本正治『武田信玄』 中公新書 平成9年
③平山 優『武田信玄』 吉川弘文館 平成18年


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